文学・評論その1「司馬遼太郎の世界 いわゆる司馬遼史観」

■我々の世代(オッサン)が持っている「歴史観」は、戦前までの「皇国史観」ではなく、まさに「司馬遼史観」でしょう。教育の場での歴史としては依然「皇国史観」が中心でしょうが、私個人で言えば年表をなぞって行くだけの味気ない世界で、その中で「人」が息づいている歴史を感じたのは漫画家白土三平の「カムイ伝」「カムイ外伝」を読んでからだと思っています。司馬遼太郎は歴史上の人物を、その怪物的(失礼)的な博覧強記でもって生き生きとした息吹を吹き込み、我々の前にその姿を見せてくれました。教科書的には平面の名前でしかない人物をあたかも「そこにいる」が如く、甦らせてくれました。その登場人物たちが、その時代その時代の空気を読む者にも吸わせてくれます。本当の話かどうかは分かりませんが、司馬遼太郎が一つの作品に取り掛かる時、神保町の古本屋から2トン車一台分の本や資料が消えた(同氏が集めた)といわれます。まさにそれだけの姿勢と作業で歴史上のキャラクターを抽出していったということの逸話でしょう。私はこの話、信じます。
■今更私ごときが語るのも気恥ずかしく思いますが、竜馬は何度も映像化されていて、本音をいうと、あまり見たくありません。なぜなら、自分の頭の中にあるイメージが画像に置き換えられるからです。何人もの竜馬キャラクターが出てきます。司馬遼太郎の竜馬、まさに「司馬竜」ですが、本を読むだけで「手触り感」さえ感じる竜馬像が頭の中に浮かんできます。どうも映像化されたもの(特に役者)には毎度、違和感を覚えます。まあ、それはさておき、もし、これを読んでいない人がいたとしたら、「もったいない」、もしくは「これから読める楽しみを持っている」と羨ましく思えます。同氏の作品は、もう新しいものは生まれてきませんから。悲しい事に…。同氏の作品は全て読んできたと冒頭に書きましたが、途中で一度ページを閉じた作品もあります。「大阪城関連(豊臣家滅亡)」の作品です。理由は単純で、申し訳ありませんが「この辺りの事」はもう意外性も何も無くなってしまっていましたので。同氏は丹念に時代背景を書き込まれ、それが時には「冗長」に思える位のページ数を割かれます。それが司馬遼太郎たる由縁(学者もマッツァオの知識と歴史考証)なのでしょうが、「大阪城関連」だけは途中で一休みすることがありました。
■明治という奇跡の時代を描き、日露戦争での秋山兄弟(坂の上の雲)、そして、幕末の新撰組、土方歳三(燃えよ剣)、高杉晋作(世に棲む日々)、西郷隆盛、大久保利通、そして桂小五郎、また維新の名誉に預かった元勲たち(翔ぶが如く)。明治という時代を学問、そして軍事といった物理的な力で切り裂いた村田蔵六、のちの大村益次郎(花神)、河井継之助(峠)。これらは全て司馬遼太郎が命を吹き込んだキャラクターだと思っています。
■何年がかりで同氏の作品を読んできたか分かりませんが、いまさら「ご紹介」などというのも間抜けな話ですが、その話はどれを読まれても面白い。のみならずして、その登場人物の言葉に知らず知らず、感化されます。もし、司馬遼太郎を読まれていない方、もう一度言いますが、「これからこれを読めるとは、羨ましい…」、です。その方は、書棚に並ぶ司馬遼太郎の名前で本を選べばよいだけです。どの本を手にしても、全て、引き込まれます。
■同氏の作品について書き始めたら、いったいいつ終わるのやら、となりますのでこの辺りにしますが、「梟の城」は同氏のデビュー作といっても良いかと思います。数少ないフィクションですが、やはり歴史というリアリティの中で物語が進んでいきます。忍者が主人公です。あと「空海の風景」も是非! 空海が日本でよりも海外で評価が高い理由が分かります。空海に対する私のイメージは、日本のレオナルド・ダ・ビンチ。
■余談ですが、人は「忘れる」という素晴らしい資質を持っています。いずれはまた、司馬遼太郎の作品を読み返して楽しめるのが、もう作品を生み出してくれない(既に十分な量ではありますが…)事へのせめてもの慰めです。
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★歴史・地理 その31「何故日本はドイツや朝鮮のように分割されなかったのか?」
★文学・評論 その11「戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉」
★人文・思想 その17「仏に逢うてはこれを斬り… 禅の破壊力」
★文学・評論 その39「森鴎外 『寒山拾得』 文学に解釈で臨むと…」
★社会・政治 その18「パーキンソンの法則 組織は膨張しきって終わる」
■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
