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文学・評論 その15「これぞ日本SF メタフィクション 筒井康隆」


本 「文学・評論その3」で、早川書房の一連のSF作家たちが日本独自のSFを創り上げた事について書きましたが、その中で挙げた作家が、小松左京、星新一、半村良、豊田有恒、平井和正、そして筒井康隆ですが、彼らはすべてハヤカワ・SFコンテスト出身です。筒井康隆のコンテスト入賞作は「お助け」だと長い間思っていましたが、他の作品で選外佳作は受けたものの、「お助け」を世に出したのは江戸川乱歩でした。筒井康隆の才能を見出し、それを世に出したのが江戸川乱歩である事、筒井ファンにはよく知られた話ですが、「お助け」はNULL(ヌル)という、筒井康隆の同人誌に発表したものを江戸川乱歩が商業誌に転載したという事のようです。

ありゃま、勘違い…。本サイトではネタバレになるような書評はやりませんけど、「お助け」、当然、面白い短編です。で、そのNULLですが、筒井康隆はもともと俳優志望だったようで、歳をとって、いくつかの映画や舞台に出ているのを見て、違和感を持っていたのですが、これは人の自由ですね。小説の場合、私は殆どその作家自体にはあまり興味がありませんでした。読者はあくまでもその作品と対峙するものと思っていましたから。ただ、本サイトを立ち上げ、テキトーな「雑学」程度に色々と調べて、その作風、作品の生まれた経緯を考えていたら、面白い事が色々と分かったりします。
     
筒井康隆がNULLという同人誌を、父親や兄弟を同人に、自腹で出版・運営していたという事は知っていましたが、その後、会社を辞めてデザイン会社「ヌル・スタジオ」を立ち上げ、そこがSF作家たちの溜まり場となり、眉村卓(たまたま事務所の向かいの会社にいたそうで…)や小松左京たちまでがいたとはビックリ。更にはその同人誌NULLに平井和正も参加しており、他にもプロデビューしているような作家も参加していたようです。これって、マンガ界の「トキワ荘」じゃないですか! SF界は筒井康隆の「ヌル・スタジオ」が才能の溜まり場になっていた訳ですよ。

ちょっと話が脱線するかも、ですが、才能というのは集まるもののようです。もちろん偶然とか必然とかあるのでしょうが、例えば喫茶店の新宿風月堂とか、ザッと名前を挙げただけでも、岡本太郎、谷川俊太郎、野坂昭如、五木寛之、寺山修司、三国錬太郎、ビートたけし、岸田今日子、唐十郎、等々…。銀座のシャンソン喫茶銀巴里には美輪明弘、戸川雅子、長谷川きよし、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修二、等々…。互いに引き寄せ合うのか、互いに触発して才能を開花させていくのか…。今でもどこかで、そう言った才能のるつぼのような所があるのでしょうね。ハイ、見事に脱線しましたので、話を元に戻します。筒井康隆が同人誌NULLを出した背景には、当時SF小説を受け入れるようなコンテストが無かったためだそうですが、未だにそういう風潮って強いですよ。それをブチ抜いたのがハヤカワSFコンテストだと考えています。
    
で、先の「文学・評論その3」で、ハヤカワSF小説の虜になってしまうキッカケは友人から借りた筒井康隆の小説でしたが、それが何であったのかは忘れましたけど、多分「東海道戦争」だと思います。筒井康隆がかつて書いたジュブナイル(少年少女向け小説)で「時をかける少女」は読みましたが、これが同じ作家の書いた作品か、と驚きました。その感覚を「何が自分を捉えたかといいますと、欧米のSFと違い、身近な題材を次第に異質な世界へと引きずり込んで、価値観をひっくり返すその小説手法に、これまでに感じた事のない、新しい小説の面白さを覚えたからです。確かにジャンルから言えばSF小説です。しかし、ジャンルなどもうどうでもいいような面白さ」ということを書きましたが、「メタフィクション(Metafiction)」という言葉を知った時、筒井康隆の小説を読んで感じたものは「これだったのか!」とストンと腑に落ちました。小説は通常、作者自身や読者に関わるような事は書かれません。作者と読者との間にあるのは「作品世界」だけです。誰が読んでいるかなど想定もされません。現実にそうですから。しかし、その読者を作者が巻き込み、物語を作っていく手法がメタフィクションであるという事です。

これって、また脱線するかもしれませんが、同様の手法を、お笑いの帝王、林家三平や、ダイマル・ラケットの漫才コンビがやっていたような…。それまでの演芸では「舞台は舞台、客席は客席」という不文律があったようですけど(本来そうでしょうね)、林家三平などはそんなものお構いなしで、お客をいじりまわしています。その掟破りの芸は「客席をうねらせるほどの笑いを生んだ」と言います。私も、大いに笑った(林家三平の古典落語も一度は聞いてみたかったけど…)。ダイマル・ラケットなどは、「舞台の上で自分の話に笑う事」がタブーだったのを、これまたお構いなしで大笑いして、お客をその笑いに引きずり込んでいきました。(学問的に)間違っていたらごめんなさいですが、私にはメタフィクションの手法がこれと同じ事のように感じられたのです。筒井康隆の「笑うな」や「俗物図鑑」でそれを大いに感じた記憶があります。作品の内容は、忘れましたけど(また読んで楽しめる!)。
     
このメタフィクションという手法、今のテレビ番組がそうじゃないですか? かつては、お茶の間(古…)とテレビの向こうに映るスターたちとは全く別の世界の住人で、スターはスターだった時代から、今のバラエティ番組は、その境目が殆ど無くなっているように感じます。テレビに映っているタレント(?)とそれを見ている視聴者とを入れ替えても変わらないような、見ている方も「芸」に一目置くような見方ではなく、「あんなの私でもできるよ(実際には無理ですよ)」ってな感じで見ているのでは。そうやって、「向こうとこっち」が混在した中で笑ったり面白がったりしているような。これも一種のメタフィクションだと思います(強引…?)。まあ、私は最近のテレビが面白くないのでもう殆ど見ないで、CS契約して、昔の番組を楽しんでいますけど(悪い? オヤジだから)。しかし、筒井康隆のメタフィクションの手法はもっと「高い次元で昇華」しています。テレビほど安直には表現できない「活字」でその世界を書き表している訳ですから。

しかし、筒井康隆がメタフィクションの手法で読者を振り回しているだけではありません。どちらかといえばこちらの方の作品が私としては好きなのですが、それは「霊長類南へ」「夢の木坂分岐点」「旅のラルゴ」「ヨッパ谷への降下」「エディプスの恋人」「虚航船団」などです。「旅のラルゴ」はどこか、宮崎駿監督の映画のような読後感の残る作品です。筒井康隆という才能は、日本の作家の中でも少々次元の違う所にいると思います。故におそらく「誤解」のようなものもよく招いているような…。しかし、筒井康隆その人の持っている才能を測る目盛などないでしょう。とにかく、一読者としては「楽しませてくれよぉぉぉ、ハァ、ハァ…」ってな感じです。

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