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文学・評論 その16「定型から自由律の生き方へ 尾崎放哉」


本 「文学・評論その12」で、「咳をしても一人」は種田山頭火の句であると思っていた、という、長い間私が勘違いしていた事を書きましたが、その作者は尾崎放哉(おざきほうさい:1885年~1926年)。種田山頭火と並び称せられる自由律俳句の代表的存在です。となれば、やはりこの尾崎放哉の事も書いてみたくなりました。自由律俳句といえば、私は種田山頭火の句が好きで、他のものは作者とその句があまり一致していませんでした。ですから、前述のような勘違いを長い間していましたが、やはりこの「咳をしても一人」は定型の俳句が世界最小の「文学」であるとすれば、さらに短い言葉の中に、人の想像力を刺激する空間を創り上げる力をもった傑作のひとつであると思います。ちなみに、山頭火の句で好きなのは「酔うてこおろぎといっしょに寝ていたよ」です。こちらは静寂の中にも、どこか愛嬌を感じさせてくれるのですが、尾崎放哉の「咳をしても一人」は人の感情すら寄せ付けない、「一人である事」の拠る術もない事実を、時間さえも感じられない空間の中に刻み付けます。

同様の思いを湧き上がらせるような句が放哉の句には見られます。「こんなよい月を一人で見て寝る」「一人の道が暮れてきた」。私見ですが、同じようにその力量を評されながら、やはり種田山頭火には、どこか「ヤケクソ」というか、「脱力」「苦笑い」のような愛嬌を感じられる句が多く、それ故、多くのファンがいるのではないかと思います。尾崎放哉には山頭火のような「懐」は感じられません。表現は月並みですが、「結界」の中でひとり景色を眺めているような、そんなイメージがあります。晩年の頃の句、「つくづく淋しい我が影よ動かして見る」「たつた一人になりきつて夕空」などです。数少ない、諧謔的な句も、「落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事」などは、山頭火の「苦笑い」的なものではなく、「自嘲」としか言いようのないものを感じてしまいます。
    
「自由律俳句」については「文学・評論その12」で簡単に触れましたが、その誕生は子規の弟子である河東碧梧桐の「新傾向俳句」からでしょう。「写生・写実」をコアとして現実から離れない生活の中での創作という、それだけでも古典的な俳句に「近代的」な改革を施したといえる正岡子規より、さらに俳句を自由な表現方法として進化させようとした河東碧梧桐の試みは、まずその定型を破るところから始まったのでしょう。Wikipedia の記述を借りるなら、「五七五の定型を徐々に破って五五三五、五五五三といった四分節形式を試みる」という事。碧梧桐のその思いは、何となく分かります。例えば、同じ子規門下の高浜虚子の詩に「人々は 皆芝に腰 たんぽぽ黄」という句がありますが、これなど、占めくくりの「黄」が意表を突いた強い余韻を残し、五七五の中に情景を見事に切り取っており、好きな句なのですが、同時に、表現としての「窮屈さ」も妙な事に、感じてしまいます。

虚子は子規の後継を託されるほど(拒みましたが)に子規の薫陶を受けていたのでしょうけど、もしかしたらそれに河東碧梧桐は、何やら窮屈なものを感じ、「その先にある、もっと自由な創作」を指向したのかもしれません。あくまでも推測ですけど。自由律俳句はその後も「精力的」に様々な試行を繰り返し、ついには「かほ」「いろ」といった、たった二文字の句まで生み出します。高浜虚子は河東碧梧桐の試みに対して「危機感」を抱き、子規の没後、創作から遠ざかっていた俳句の世界に復帰しています。おそらく、虚子は俳句の創作が「客観写生」からどんどん離れ、あまりに自由を求める傾向(定型、季題をも捨て、文語から口語へ、そして個性重視)が「独りよがり」な創作を生み出し、子規が復活させた文学的な芸術性を廃らせてしまいかねない潮流を危惧したのでしょう。つまり「俳句」の芸術性が「拠り所を失ってしまう」事に。
    
話を尾崎放哉に戻します。彼のケースヒストリー(生い立ち)を眺めても、誤解を恐れずに言えば「前半」は全く面白みはありません。明治期に生まれ、近代国家建設に邁進する時代、旧制第一高を出て、東京帝国大学法学部に進み、ホトトギスに投句し、入選。俳句は第一高時代に始め、その時に夏目漱石から英語を教わり、その漱石に傾倒したようです。そして、東京帝国大学を卒業後、通信社を経て、東洋生命株式会社(現朝日生命)に就職。余談ですが東洋生命は旧帝国生命に吸収(?)され、一度解散して、今の朝日生命がその継続会社になっているようですが、当時として、ビルも立派だし、モダンな一流企業だったのでしょうね。その中で出世コースを歩みます。そこまでは「時代のエリート」の一言で済ませる事ができます。しかし、性格にクセがあり(創作に携わる人の共通点)、周囲との軋轢も多く、トラブル・メーカーであったようで、会社を辞めてしまいます(馘首になったとも…)。

そこから放哉の転落が一気に始まります。妻とも別れ、寺男を点々としながら、「海の見える庵」といいつつも、要は小豆島の寺院で寺男として過ごし、最期を迎えます。周囲の評判はすこぶる悪く、「酒癖の悪い嫌なやつ」だったようです。しかし、その句には作者の境遇など関係のない「言葉」の力に溢れています。時代のエリートまで登り詰めながら、必然なのか、アクシデントなのか、アッと言う間に社会的には奈落の底に落ちて行きます。「落ちて行った」から面白くなったという事はありませんが、あまりの激しい「転がり具合」に、あくまでも象徴的ですけど、「(もしかしたら)定型の人生から自由律の人生」へと必然的に変遷していったのか、といったイメージを尾崎放哉に持ってしまうのです。それが本人にとってハッピーであったとは言い難いのですが、彼を只の「人格破綻者」というには、あまりにその句が自由で奔放、力強いのです。

「肉がやせてくる太い骨である」「考えごとをしている田螺が歩いている」「沈黙の池に亀一つ浮き上る」「何も忘れた気で夏帽をかぶつて」などなど…。そもそも、「人格が創造する」とは思っていませんが、「破綻した精神から」は生まれてこないような言葉が連なっています。山頭火とは違う、先ほどは「自嘲」と書きましたが、どちらかといえば「冷たさ」さえ感じるような…。虚子が危惧したような事は起こっていません。むしろ、俳句が次の時代へと進化する言葉を生み出したのは、自由律であるとさえ思えます。私個人は山頭火の句の方を好みますが、「ゾッ」とするほどの言葉の力を持っているのは、尾崎放哉であると思います。

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