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文学・評論 その18「野坂昭如 骨餓身峠死人葛 死に支えられる生」


本 私は特に野坂昭如のファンという訳ではありません。氏の「自殺行為」的な執筆量の多さ(司馬遼太郎が驚いたらしい)は有名ですが、一般に野坂昭如のイメージとは「おもちゃのチャチャチャ」の作詞家や、歌手、タレント、政治家といった「表」に見えるキャラクターとしての氏の方が有名であるとは思います。特に故大島渚のパーティーに出てマジで大島渚にパンチを見舞い、大島渚もそれに応戦して持っていたマイクで殴り返すといった事件など、どちらかといえば、その語り口も含めてファンキーな側面がクローズアップされているように思います。が、私は違います。冒頭で「特に野坂昭如のファンという訳ではない」と書きましたが、そこが実は微妙でして、正直なところを言えば「読めなくなってしまった」のです。私にとっての氏のイメージは、「生きていることへの、身を苛まれるような思い」とでもいえばいいのか、「どうにも逃れられる事ができないものを突き付けられる」というか…、早い話が、野坂昭如の作品を呼んだ後、しばらく私は無口になります。

何故か? それは、語るべき言葉がみな「水っぽくなってしまうような」気持ちになるからです。最初に氏の作品を読んだのは「アメリカひじき」と「火垂るの墓」です。そこには野坂昭如の実体験をベースにした戦後の姿が現されています。で、特に「火垂るの墓」ですが、これは二度と読めません。アニメ(スタジオジブリが制作)にもなりましたが、それを見る事はできません。何故なら、泣いてしまうからです。「火垂るの墓」は単行本の表紙を見ただけで目頭が熱くなってきます。何故泣くのか? 悲しい話ならたくさんあります。しかし、この話は「どうしようもなく健気な生」に、とんでもない悲しさを覚えてしまうのです。断っておきますが、主人公の「妹の死」という哀しいストーリーに泣かされるのではありません。唐突に言ってしまえば「我が身の生の哀しさ」に気付かされてしまうのです。つまり、「健気な生」ではなく、「生の健気さ」に「それでも生きなければならないのか…」といった子供のような精神に退行してしまうのです(あ、目頭が…)。自ら「乱読」を良しとしていますから、好き嫌いに関わらず、何でも読む「良い子」のつもりだったのですが、ダメです。氏の作品は他に数編は読みましたが…。
    
司馬遼太郎が「自殺的な執筆量」と驚嘆したほどの作品群の中で、前出の二編の他に読んだのは「骨餓身峠死人葛」と、週刊文春に連載されていた「オペレーション・ノア」です。本サイトではネタバレになるような書評や、梗概の紹介などは基本的にやりませんが、「骨餓身峠死人葛」は、その内容をムチャクチャ簡単にいえば、蔦蔓の一種である植物が、食べられる実を付けるのですが、その根の土中には人の死体が…、という事が描かれています。作風として「読点(、)」を省略していく作家もいますが、野坂昭如は「句点(。)」を減らし、どう表現すればよいのか、頭の中に貼りついてくるような「粘り」のある文章を書きます。特にこの「骨餓身峠死人葛」ではそれが顕著です。その作風がとにかく「火垂るの墓」同様の思いにまた、読む者を引き込んでいくのです(私が過敏なだけなのか…)。もう実質、私はこの辺りで野坂昭如の本には手が伸ばしにくくなりました。

しかし、何故か、昔(40年近く前です:歳がばれる…)、週刊文春に連載されていた「オペレーション・ノア」を読んでしまいましたが、これはジャンルとしては近未来小説ですので、SF好きの私としては、けっこうスンナリと作品世界に入っていけました、と、思っていたら、やはり同じ陥穽にポコリと落ちてしまいました。それ以来、氏の作品は読んでいません。完璧に、読めなくなってしまいました。もちろん、軽妙洒脱なエッセイなどもありますが、エッセイの類は元からあまり読まないので…。「オペレーション・ノア」を読んでいて、私は「これって、新鎖国論…?」と思った記憶がありますが、それが遠からずも当たってない訳ではないのでしょうが、ベースにあるものが「骨餓身峠死人葛」と同じであったと感じた時、また「生の健気さ」を思い出さされたのです。この「オペレーション・ノア」の内容をこれまたムチャクチャ簡単にいえば、人口増加や高齢化、エネルギー不足という、実際に現在起こっているような事が起こる近未来社会(当時から見れば、今…)で、日本は生き残りのために「人口を半分にする」ことを国が画策した、というものです。
    
総括という訳でもありませんが、野坂昭如の「アメリカひじき」「火垂るの墓」「骨餓身峠死人葛」「オペレーション・ノア(同じようなタイトルの映画がありますが、別物です)」の四作品しか知らない私ですが(雑誌などのコラムや記事、対談などは読んでいると思います)、そこに貫かれているものはひとつであると思います。「生の健気さ」との表現だけではやはりくくりきれません。氏の戦中はもとより、「戦後体験」という事実がどれほど重いものであるかは、親が戦争に行った世代の者として、「分からない」事では決してありませんが、それを自らが経験している訳ではありません。だからこそ、野坂昭如が粘着性の高い言葉で紡ぎあげる作品の数々が、想像の中の感情を余計にかき立てられるのです。誤解を恐れずに言えば「お前なんかに分かってたまるか」という乾いた冷たいものが流れ込んでくるような…。

作家論を殊更やりたい訳ではありませんが、「やりきれない哀しさ」という感情があるなら、それが貼りついて、なかなか拭えなくなってしまうのです。まさに「リアルな死に支えられている生」としか言いようのないものが氏の作品世界の中には実体を以って立っているのです。昔(1973年)、「ソイレントグリーン」という映画がありましたが、人口の増加により、世界が特権階級とそうでない者とに分かれ、貧富の差が異常に激しくなり、特権階級以外の人間はソイレントグリーンという海のプランクトンから作り出した合成食品でその命をつなぎますが、実はその原料が「人間」だったというストーリーです。「死者が生者の命をつなぐ」。それでも「生きていく」。映画を観終わった後にゾッとした記憶があります。
  
何で読んだか忘れましたが、「われわれは、それでも生きて生きて、生きて行かなければならない」という言葉が記憶にあります。ここなんですよ、野坂昭如の作品が私にとっては重すぎるものになってしまっているのは。考えなければそれまでの事が、ホンのちょっとだけパクリと傷口を開けられ、やがてはそこを思い切り広げられて「ハイ、治るのには時間がかかるよ」って、言われるような…。「人の死によって、人の生は支えられている」、この答えの出しようもない現実…。太宰治ではないですけど「生まれてきて、すいません」ってな気持ちになるんです。

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