テキトー雑学堂 タイトルバナー

文学・評論 その19「太宰治 生まれてすいません 自虐の文学」


本 この前の「その18」の最後に、太宰治の「生まれてすいません」という言葉を唐突に引用しましたので、その流れで彼の事を…。太宰治はよく「麻疹(はしか)」に例えられます。言い得て妙。個人的な事ですが、私も10代後半の頃、この太宰治の作品に熱中しました。最初に太宰治の名を知ったのは、学校の教科書で読んだ「走れメロス」です。この作品は国語教科書の定番でしたが、今でもそうでしょうか? その時は、別にどうという事も無かったのですが(「走れメロス」は童話だと思っています)、たまたま読んだ「人間失格」でストンと太宰ワールドにハマってしまいました。まだ年若い頃、「太宰の言葉こそが真実であり、人の本質をことごとく露わにしている!」とさえ思ってしまった記憶があります。この「人間失格」、この作品が精神病理の症例サンプルとして研究対象になっているという話を聞きますが、それは太宰治に限った事ではないでしょう。創作というのはいずれにしても精神病理的な側面を持って生まれ出るものと思いますから。

しかし、確かに、この作品のテーマは何といって良いのやら、「斜陽」と合わせて予定調和的に言うなら「堕落、没落していく者の時系列的な心情変化に観られる多元的世界(ナンノコッチャ…)」とでも言えばいいのでしょうか。個人的な感想としては「前向きなドM、自己陶酔の美学」なのですが、これは読む人それぞれでしょう。つまり、「太宰治とは…」というものが曖昧模糊としているというか、別にどうでもいいというか、ハッキリ言ってそこに芯のようなものは無いと思っています。しかし、若い頃のある時期にハマるのです。まさに「麻疹」の如く。多分、その頃に彼の作品は、殆ど読み散らかしていると思います。ところが、ある年代からパタリとその頃に覚えた「共感、高揚感」のようなものが、血をすべて入れ替えたように身体から抜けて、殆ど記憶に残らないのです。それが「麻疹」といわれる由縁でしょうか。もし、今の私の年代(オッサン)で、「太宰治はいいなあ」と言っている人がいたとしたら、「大人の麻疹は危ないから、もう読むのは止めなさい」と言うかも…。
     
太宰治というのは、「まだ未熟な精神をたぶらかす詐術に長けた作家ではないか」と思う事があります。根拠はありませんが、彼の作家生活は、あの時代によくある話といえばそうでしょうけど、ハチャメチャです。「大人のようなもの」は感じられません。子供のまま大きくなって、亡くなったようなイメージです。東北の名家に生まれ、何不自由のない秀才の子供時代を過ごし、左翼思想に傾き、自分が「資産家」の出身であるという事に悩み(?)、以後、彼の得意技となる「睡眠薬自殺」を図ります。東大仏文科に進みますが、授業料未納により除籍され、就職しようとした新聞社の入社試験に落ち、ハイ、自殺未遂です。今度は首吊りだったそうですが…。これは「自分で不幸なケースヒストリーを作っている」と解釈する事も出来ると思います。以後、女性遍歴も調べるのが面倒くさくなるくらいトッカエヒッカエで、その女性とも3回(多分)心中を図り、3度目にとうとう本当に死んでしまいます。それまでは睡眠薬だったのが、最期は玉川上水で「入水心中」です。心中以外の自殺未遂は何回くらいあったのでしょうか。太宰治と関係のあった女性たちは皆美人であったそうですので、彼は女性にモテたのでしょう。というより、女性の「母性本能」をくすぐるような男であったのかもしれません。

とにかく、コンチクショーと言うくらい、自分を不幸へ不幸へと追いやっているような後半生に見えます。そこは「不可解」ですが、まあ作家に限った事ではなく、珍しい事でもないでしょうけど…。彼の最も「子供らしい」側面を表しているのは、芥川賞の選考委員をやっていた川端康成に「自分に芥川賞をくれ」と手紙で懇願した事でしょうか。まさか「芥川賞、僕にちょーだいよ」ってな手紙ではなく、極めて切実な文面ですが、内容は割愛します。それを撥ねつけられると、殺意さえ感じるほどに川端康成を「悪人」呼ばわりします。彼の作品は置いといて、その作家生活は、いくら類似した話はよくあるとはいえ、脱力ものです。
      
太宰治の写真で有名な、銀座の「BAR・ルパン」ですが、これはまだ残ってます。私も何度か人に誘われて行った事はありますが、「ああ、これが太宰治の通っていたあの写真のバーか…」などとは思いませんでした。見事に、太宰治の読書体験なるものはほぼパーフェクトに記憶から消えています。あれだけ、時には感極まって目頭を熱くしながら、まさに「至宝の言葉」と思いつつ読んでいた太宰治の作品群は、そのストーリーの記憶さえも怪しいほどに頭の中から姿を消しています。何ででしょうか? おそらく、歳を取るごとに「図太く」なったからでしょう。太宰治の作品の中に「真綿でも傷がつく心」という表現があります。それを読んだ時には深く共感した若い「感受性」が、今ではトンカチでも傷などつかない(痛いとは思っても)「堂々たるオッサン」の感受性になっているからでしょう。断っておきますが、それは「鈍感になった」のとは違います。「自己否定」をしかねない感受性が、面の皮が厚い「自己肯定」の精神へと変わっていったのでしょう。

で、太宰治は「真綿でも傷がつく」感受性のまま生きていたのかもしれません。太宰治の深刻な薬物依存症を心配した井伏鱒二らが、「結核療養」と称して彼を精神病病棟に入院させた事を、太宰治は「自分は人間とは思われていない。自分は人間を失格してしまっている」と思ったようです。そこから「人間失格」が生まれてくるのですが、やはり、どこかで彼は精神を病み続けていたのだと考えざるを得ません。他の作家の作品の中に「(女は)悲しみの中でしか生きられない」との表現(これは差別的なものではありません。文脈の中での詩的な表現です)がありましたが、彼もそうなのかもしれません。

太宰治が傑出した作家であり、日本文学史にその名を残す存在であることは事実ですし、本来、作品と作家とは別物だと考えています。しかし、自殺する作家というのは何なのでしょうか? 太宰治の「芥川賞」への懇願を撥ねつけた川端康成も自殺しています。太宰治のアイドルであった芥川龍之介も、自殺しています。有島武郎も、金子 みすゞ、火野葦平、三島由紀夫も…。まあ、作家だけが自殺する訳ではありませんが、自殺理由が不可解…。太宰治の自殺未遂回数の多さは突出しています。それぞれに理由はあるのでしょうが、「創作という活発な生命活動(生)」と「自殺という、生の否定」がその中に同居しているというのは、まさに「エロスとタナトス」「自己保存欲求と自己破壊欲求」が表裏一体でクルクルと回っている状態のように思えます。「生まれてすいません」…。例えや冗談以外でこのような言葉を発せられる精神を、おそらく私個人は一生理解できないでしょうね。本音、したくもない。

文学・評論 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.