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文学・評論 その20「私小説…? 純文学…? それって何?」


本 「私小説」と「純文学」なる言葉にかなり以前から抵抗がありました。まず、愛用の新解さん(国語辞典)で「私小説」なる言葉を見てみると、「作者の身近に起こった事実をそのまま材料とした、現代日本独特の小説。わたくし小説」とあります。「純文学」は「(通俗文学、大衆文学に対して)多く売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られる文学作品」とあります。この「多く売れることを期待せず」というのは、まさに新解さんの本領発揮。笑います。では、その反意語について考えてみます。「私小説」の反対は「他人小説」? 「純文学」は「通俗文学」「大衆文学」に対する呼称とありますが、私に言わせれば「不純文学」が反対語。ということは、正統三段論法的に考えれば、「通俗文学」「大衆文学」とやらは「不純文学」。少々、因縁に近いかもしれませんが、「太陽」を「太陽」と呼び、「月」を「月」と呼び、「犬」を「犬」と呼び、「猫」を「猫」と呼び、それは最終的に「記号化(共通語となる)」するもの。要するに「識別のレッテル」です。

「私小説」「純文学」なるものは果たして「記号化」しているのでしょうか? 否であると考えます。しかし、妙な事に、言葉としては現在も生きています。つまりそれは、「万人が受け入れる "記号化" を経ず」に、単なる「識別のレッテル貼り」となっていて、構造的には「偏った見方(偏見)」や「差別」と同じ構造をもった言葉であると考えます。「私小説」が「作者の身近に起こった事実をそのまま材料とし…」生まれるものであれば、「何も起こらなければ」その「私小説」は生まれないという事です。「純文学」が「通俗」でも「大衆(的)」でもなく、「多く売れることを期待せず」であれば、そのようなものを書けるのは経済的に余裕のある者か、経済生活の破綻を約束された者です。それに「通俗文学」とか「大衆文学」とかって、何、それ?
    
「純文学」という言葉が「私小説」を意味した事もあるとか。「私小説(ししょうせつ、わたくししょうせつ)」なる言葉は、大正から昭和にかけて主流をなした、日本独特の小説形態であるそうですが、「虚構」を交えないのが特徴であるようです。ハイ、またここで噛みつきたくなります。それが「虚構」でないと、誰が証明できるのでしょうか? それとも「虚構」ではございません、と証明できた時に「私小説」と認定されるのでしょうか? その背景には日本の「自然主義」の影響が大きく、「自然の事実を観察し、真実を描く」ために「虚構、虚飾」を否定する、といった背景があるのでしょうが、「観察」という手法の、文学における「過渡期、実験」といった事であれば短期的にあり得ると思いますけど、それらは全て「人の創造的行為、創造力」にとんでもない制約をかけることになりかねない、いや、なると考えます。

「私小説」なる作品の作者には、あの森鴎外や夏目漱石、田山花袋など、明治の文豪も名を連ねていますが、かの文豪たちに「私小説って言われていますが…」って聞いてみたいですね。どう答えるのでしょうか? 「確かに "私" が書いたから、私の小説である」とボケをかまされるか、「何それ? もう一遍、説明して」って切り返されるか…。それ以後もズラズラと名前が並びますが、有名どこでは志賀直哉、谷崎潤一郎、佐藤春夫、川端康成、小林多喜二、太宰治、三島由紀夫、などなどなど…。まあ、「自分の身の回りのことを題材にして書いた小説、作品」を私小説とするならまだしも分かりますが、それなら、「私小説」という言葉は不要。どうにも「私小説」なるものが、大切なお宝か権威の如く、神棚に祀られているようで、まさに「特選私小説印」のレッテル貼り。正直、そうした作品の多くは個人的にあまり好まないものが多い。まあ、好き嫌いという個人の自由を持ち出すまでもなく、なにやら鼻にツくものが多いので。
   
一体、何故、このような言葉が生まれてきたのでしょうか。私が一つだけムーブメントとして理解できるのは、明治期に小説なるものが夏目漱石、森鴎外の二大巨頭によって創作実践され、その背景にはヨーロッパの、練り上げられた作品群が大きな存在として影響を与えていたと思いますけど、「文学・評論その2」で書いた、「なぜ二葉亭四迷の存在が明治期の小説なるものにおいて重要と位置づけるのかというと、その "浮雲" での "言文一致" がその後の小説に大きな影響を与えたと考えるからです。話し言葉に近い口語体で文章を書く事。これが一つのムーブメントとなりましたが、その当時は必ずしもそれが主流であった訳ではなく、古文的な表現や文語や、漢文書き下し的な文章など様々だったようです」という、まさに日本文学のカンブリア紀とでもいう「大試行錯誤・実験」の中で「私」というものがひとつの「指標」となっていた、という点です。個人の創造の中で「新しい表現形式」と「対象となるテーマの客観視、普遍化」、「新たなる領域の確立」という点では、確かに「私」という「個人」の力によって文学が大きく変革されたことは事実でしょう。しかし、その呼称が「私小説」ではないでしょう。ましてや「純文学」でも。「身辺小説、心境小説」という表現を取る事もあるようですが、こっちの方が分かりやすい。

やはり、小林秀雄がその「私小説論(わたくししょうせつろん):1935年)」で「私小説」なるものに噛みついています。いわく「西洋の "私" は社会化されているが、日本の "私" は社会化されていない」。それゆえに「私小説は死んだ」と。いえ、死にはしないですよ、最初からなかったのですから。よく、小林秀雄は「難解」という評価がありますが、これって、ムチャクチャ分かりやすいです。彼は「言い切っている」のです。個人的解釈としては、要するに「日本の "私" はまだ西洋ほど成熟してなくて、未熟である」と断じているのです。もっと分かりやすくしてしまえば「未熟な "私" しかいない所から、どう頑張ろうと "他者の共感を得る" という強いメッセージが発せられることは無い」という事です。

もう、非難覚悟でもう一丁! 「未熟な "私" が生み出すものは、偏狭な価値観と主張でしかない」。仕方ないですよ、その背骨となる「社会性」、というより、「社会」そのものが「転換期」にあり、未熟(ヨーロッパに比べて)だった訳ですから。長々と批判めいた事を書きましたが、「批判そのものじゃないか」と突っ込まれるのもサッとかわして、これは「批判」ではありません。ただ、「言葉」としておかしい、と思っているだけです。意味不明の言葉があると、「理屈付け」の再生産が起こり始めると考えます。それは、ろくなものではありません。事実、この「私小説」「純文学」なるものが日本の文壇に「偏見」「差別」を永らく持ち込んでいるのは事実、でしょう。

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