文学・評論 その21「直球を胸に投げ込んでくる詩人 茨木のり子」

■と、少々、毎日の新聞を読みながらカッカとしてしまいますが、その新聞の中で永らく忘れていた詩人の名前がピカピカと光って目につきました。その名は「茨木のり子(1926年~2006年)」。彼女の詩で一番有名なのは「わたしが一番きれいだったとき」でしょう。これは多くの教科書に掲載されている詩ですが、私が使っていた教科書には載っていませんでした。その存在を知ったのは乱読の中、ある本で。それが何であったかは忘れましたが、不謹慎ながら、「反戦」をこれほど軽やかに、明るささえ感じるほどに詠った詩は無いのではないかと感じます。彼女は15歳で日米開戦を迎え、19歳で終戦を迎えています。
■その詩の出だしは「わたしが一番きれいだったとき 街はがらがら崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした」。この詩の中で私自身が茨木のり子の真骨頂と思うのは「男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」「わたしの国は戦争で負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり 卑屈な町をのしあるいた」の言葉です。誠に、誠に重い時代を、まさに惚れ惚れとする軌道の直球で胸に投げ込まれたような気持ちになります。投げ込まれたものに、是非も無く、むしろ「気持ちを楽にして」もらえたような感覚を覚えます。誠に重苦しい時代を詠った詩なのに…。彼女のこの詩はアメリカで "When I was Most Beautiful" のタイトルで反ベトナム戦争の曲となっています。彼女の直球は国境など関係なく投げ込まれるのでしょう。
■この詩の最後の一行は「フランスのルオー爺さんのように ね」で結ばれています。この「ね」は一文字空けて書かれていますが、この「ね」にトドメを刺されるのです。応える言葉は、「ハイ…」しかありません(※ルオー爺さん=ジョルジュ・ルオー:Georges Rouault 1871年~1958年 フランスの画家)。私は本サイトで評論めいた事を書こうとは思っていないのですが、茨木のり子の詩は、その作品について論じてしまいたくなるほど、ストンと体の内に入ってくるのです。例えば「自分の感受性くらい」という詩があります。もうその出だしで膝を揃えて正座したくなるのです。「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて」。また、応える言葉は「ハイ…」。最後は「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」。仰る通りでございます…。
■詩集としてはとんでもない15万部のベストセラーとなっている「倚りかからず」は、彼女が70歳を越えての作品ですが、「もはや できあいの思想には倚りかかりたくない」から始まり、最後は「じぶんの二本足で立っていて なに不都合のことやある」、更に「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」。彼女の直球に私は、ストライク・アウト! 見逃しの三振です。その球筋に見惚れて。文学の形式は様々あり、詩といえば「漢詩、和歌、短歌」などがありますが、韻やリズムなどの美しさをもたらす代わりの制約から解放された「人間のメッセージ」としての詩は、まさにあらゆる文学の中で「煮詰めて煮詰められた」言葉の結晶であると思います。茨木のり子の詩を読んでいるとつくづくそう感じてしまいます。別に、文学をジャンル、形式によってどうのこうのとは全く思っていません。しかし、重くも暗くも無く、キレのある、スパーンと入ってくる「言葉の力」を彼女の詩には心底感じてしまいます。
■個人的に私が思う彼女の最高の「詩」は、不謹慎は百も承知ながら、その遺書に書かれた「”あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。見事な括りの言葉…。彼女の詩に感じるあの「力」は「命の力」であったのかと、思わざるを得ません。あまりにも力強い…。享年79歳。憧れとか、羨望とかそういうのではなく、「人はこれほど見事に生きられるのか」という思いが、拙い我が身の胸に直球の心地よい一撃として、残ります。
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★歴史・地理 その31「何故日本はドイツや朝鮮のように分割されなかったのか?」
★文学・評論 その11「戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉」
★人文・思想 その17「仏に逢うてはこれを斬り… 禅の破壊力」
★文学・評論 その39「森鴎外 『寒山拾得』 文学に解釈で臨むと…」
★社会・政治 その18「パーキンソンの法則 組織は膨張しきって終わる」
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