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文学・評論 その22「何故、それほど美しい詩が詠えるのか? 金子みすゞ」


本 このテーマのひとつ前で「茨木のり子」を取り上げましたが、その時に童謡詩人である「金子みすゞ(1903年~1930年)」が同時に思い浮かび、書いてみようと思っていたのですが、何故か、なかなか書けませんでした。「茨木のり子」は、その思いを直球で人の胸に投げ込んでくる詩人です。しかし「金子みすゞ」は、「茨木のり子」とは違う魂からその美しい詩が溢れてくる事を感じつつも、それをどうすれば表現できるのか、とっかかりが分からなかったからです。茨木のり子と金子みすゞが同じ筈がありません。しかし、そこにとても似通ったものと、全く違ったものを同時に感じてしまうのです。予定調和的に言えば、茨木のり子は「時代のもたらした悲劇」に翻弄され、「金子みすゞ」は、最期を服毒自殺で終えるという薄幸の中で、わずか26年の人生を過ごします。しかし、その中で見事な詩を詠い上げます。そこに「詩人の持つ魂」としか言いようのない共通点を強く感じつつ、茨木のり子が向き合ったものと、金子みすゞの目に映っていた世界が全く異質のものに思えるのです。茨木のり子の代表作「わたしが一番きれいだったとき」と、金子みすゞの代表作(私的に)「こだまでしょうか」を読み比べると、茨木のり子が「全てを受け入れる力」であるなら、金子みすゞは「どこかに自分のサンクチュアリ(聖域)を持っていた」詩人であったと思います。

彼女の人生を一言でいうなら、今でいうドメスティックバイオレンスと娘への思いの中でその人生を壊されていくという、誠に不謹慎な言い方をすれば、現代でもそこらじゅうにある珍しくも無い不幸です。しかし、時代が違いますから、逃げ道などどこにもない追い詰められた悲劇でしょう。その中であれほどに「異次元で詠っている詩」としか言いようのない作品を多く残した彼女は、現実とは違う所に(カッコつけて表現すれば)「詩人の魂を隔離していた」のでしょう。「こだまでしょうか」の詩は「遊ぼうっていうと 遊ぼうっていう。ばかっていうと、ばかっていう。…」から始まり、最後には「こだまでしょうか いいえ、だれでも。」で結ばれます。これほどの透明感はあらゆる色彩を紡ぎあげた中に生まれるのでしょうか。
     
金子みすゞという童謡詩人の存在を再度世に知らしめたのは、ACジャパンがあの東日本大震災の際にCM差し替えで彼女の詩を使った事と、2012年のテレビドラマ「金子みすゞ物語ーみんなちがってみんないいー」でしょうか。正直言って、その人生を元にドラマにされても、私自身は興味が惹かれません。それはあくまでも詩人の背景です。ただし、詩人としての金子みすゞを知る事はできます。が、惹かれるのはその作品です。このテレビドラマのタイトルにもなっている「みんなちがってみんないい」は強烈な、現代に至っても全く色褪せる事のないメッセージでもあります。この辺りは茨木のり子につながるところがあると思うのですが、先に述べた通り、その詩に溢れる透明感は金子みすゞ独特のものです。

詩のタイトルは「私と小鳥と鈴と」です。冒頭を引用します。「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速く走れない。…」そして結びに現れるのが「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」です。ある意味でかなり飛躍した流れを持つ詩です。しかし、それがピッタリとつながっているのです。他にも「大漁」「積もった雪」「お魚」「木」「もくせい」などがありますが、このサイトでは基本的にネタバレになるような書評は原則としてやりません。是非、彼女の詩を声に出して楽しんでください。童謡ですが、私はどのようなメロディであろうと構わないと思います。この透明感は、声に出して読むことで、その透明感を体感できると思っています。月並みな言葉ですけど「子供に戻してくれる」と。
      
ちなみに、金子みすゞの詩は曲を付けられることを前提とした創作ではなかったようです。その作品への評価が高まると、多くの作曲家がメロディを創り、多くの歌手たちに歌われたそうです。私はそれらのメロディを知りません。批判覚悟で言えば、無用であるとさえ思っています。しかし、彼女の詩を見て、メロディを付けたくなるのは分からなくもありません。先ほど述べたように、「子供に戻してくれる」ような気持ちが、メロディを思い浮かべさせるのでしょう。事実、非常に多くの作品が曲となっており、多くの人たちに愛唱されています。

本テーマの最後は個人的な戯言です。私は活字好きです。本好きとダイレクトに言いたいのですが、子供のころから何か読みたくて、何も無ければ辞典や折り込み広告、訳が分かりませんが新聞なども読んでいました。それは人それぞれでしょうから、単に私の性格という事ですが、今にして「何故、活字がそれほど好きだった(興味があった)のか?」を考えてみれば、随分と単純な答えが出てきます。それは、われわれのコミュニケーションは殆ど「活字(言葉)」に依存しているという事実です。「活字」を通して、色々な情報を得ている訳です。世界共通の言葉は「数学と音楽」という事を何かで読んだか聞いた記憶がありますが、然り、と思いつつもそこには「万人が操れる」という要素が抜けています。拙かろうが「活字、文字、言葉(母国語)」は自分の思いを「伝える」手段であり、それ以外に日常的なコミュニケーションを図る手段てありますか? テレパシーが使える人なら別でしょうが…。

時としてその「活字、文字、言葉を操る」能力に秀でたものが現れ、機能一辺倒か、脈絡のない冗長な活字を鮮やかに「結晶体」として表してくれます。本サイトで「万葉集」を取り上げましたが、それはまさに古の人々の思いの結晶です。取って付けたような言い方ですけど、金子みすゞの詩を初めて読んだ時以来ずっと、「透明感」という思いが頭に残っています。われわれが日常使っているのと同じ言葉(日本語)で、あれだけの結晶体を創り上げているのです。

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