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文学・評論 その23「文芸と漫画の境界 ガロ、そして、つげ義春」


本 このテーマは、つげ義春の漫画を語る時の、定番のようなものです。かといって、文芸と漫画の間にそのような熱い論争があった訳ではなく、要は、読者が抱く思いです。出版社の中では文芸と漫画のセクションはそれぞれ分かれていて、あまり交流も無いのが事実です。余談ですが、出版社の「売り上げ」では漫画の編集の方が鼻息が荒く、「プライド」では文芸の編集の方が高いという景色があります。実際、漫画担当の編集者はどこかで文芸にコンプレックスのようなものを持っており、文芸の編集者は「漫画?」ってな感じです。これは今も同じでしょう。私事ながら、出版社に通って「物書きモドキ」のような生活をしていた時から、目にしてきた光景はそんなものです。話を元に戻しますが、自称「本好き」の私にとっては、文芸なるものと漫画との間にさほどの違いは元からありません。しかしながら、この「つげ義春」、そしてその発表の舞台である青林堂の「ガロ」という漫画雑誌を思う時、どうしてもこの定番のような思いが俄かに噴出してしまうのです。ですから、あえてこのテーマを「文学」のジャンルで書きます。

一読者として。つげ義春といえば、まず出てくるのは「ねじ式」でしょう。しかし、私が一番印象に残っているのは「無能の人」です。手元にその総集編の本があります。1987年に日本文芸社が発刊したものです。その目次は「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る人」「蒸発」の六話で、これは日本文芸社の「コミックばく」に連載された作品です。「ねじ式」は1968年に「ガロ」で発表された作品で、この「無能の人」は、その十数年後、つげ義春が休筆から復帰した時の作品です。まあ、彼はこの作品の後も休筆していますから、どこからどこまで、何度、休筆したのかはよく分かりませんが。多分、書きたくなったら書いていたのでしょう。
     
「ねじ式」を最初に読んだのは高校生くらいの時だったように記憶していますが、当然リアルタイムではありません。確かにそのシュールな世界は捉えどころがなく、主人公が「メメクラゲ」に刺されて腕の静脈を切られ、医者を探して歩いているシーンの、眼科ばかりが何軒も並んでいる通りで「ちくしょう 目医者ばかりではないか」というシーンは心理学で「対人恐怖症」を表しているとか、作品自体が心理学の対象とされる事もあるようです。つげ義春は「夢」から発想を得て、この作品を描いたと言っていますから、そこからも極めて心理学的には興味深いサンプルとなってしまうのでしょう。しかし、私はこの作品、特に深読みもしないでけっこうスッと読んでしまった記憶があります。確かにインパクトは強かったのですが、読後感はただ「こんな漫画もあるんだ。面白い」です。

この作品は、各方面に影響を与えたといわれていますが、それが具体的にどのような影響だったのか、私にはよく分かりません。優れた作品は、どうであれ、当然、周りに影響を与えます。「メメクラゲ」というのは「××クラゲ」と書いたのが誤植で「メメ」になったとか。他にも主人公の手術が「〇×方式」ってのもあって、本当に「××」だったのかもしれません。しかし結果的にこの「メメクラゲ」なる名称が、この作品を一気にシュールな世界に引き込んでくれます。その当時は全学連の余波も残っていましたが、高度経済成長期の後半で、時代は「シュール」なものを受け入れるような「健全」な雰囲気ではありません。物欲(消費)が正義の時代です(今もか…)。そんな中でたまたま読んでいたカフカやカミュとこの「ねじ式」は同じように、「理不尽」の世界を描いたものとして自然に受け入れられました。そこには「文芸」と「漫画」なんて境界はなく、同じ作品群として私の中では共存していた記憶があります。
    
その「つげ義春」的作品に再度出会ったのは、大学の時。下宿の近くに、今でいう漫画喫茶のような店があって、店主の趣味なのでしょうが、店には昔の「貸本(ご存知?)」時代の本や、あの「ガロ」がズラリと並んでいました。私はコーヒー一杯でネバり、何冊もそういった本を読みました。ガロは今もデジタルコンテンツで細々と生き残っているようですが、ガロは長井勝一が青林堂社長を辞した時に実質的に無くなったと思っています。創刊時の看板作品は白土三平の「カムイ外伝」。次第に会社の経営が行き詰まって行ったようですが、それでも「原稿料を払えない出版社」が、「作品を発表したい漫画家」と渾然一体となり、あの面白い漫画雑誌を作り上げたのでしょう。稀有な事です。そこにあるのは、異次元の「作品」群です。文芸も漫画もへったくれもありません。私自身は元からそんな境界なんて持っていませんでしたから。しかし、そこに境界を作っているのは出版社(大手)です。読者にはそのようなもの、(多分)ありません。求めるものは「作品」です。ガロを「作品発表」の場とした若き日の作家たちはソウソウたるメンバーです。池上遼一、蛭子能収、杉村日向子、滝田ゆう、ますむらひろし、みうらじゅん、永島慎二、水木しげる、矢口孝雄…、キリがないので止めます…。「土佐の一本釣り」の青柳裕介の若い頃の作品が記憶にあります。後の画風からは全く想像できない漫画でした。

大手の出版社では、(失礼ながら)当時のガロに掲載されていた作品群は中々世に出られなかったでしょう。文字と絵で作品を作り上げる作家(漫画家)たちは、とにかくガロという作品発表の「場」を得て、とんでもない創作の化学反応を起こしたのです。私はそう思います。商業資本の中からは、「利益」は出てきても「創造の力」はなかなか生まれてこないでしょう。あの時代のガロのような「坩堝」が存在しないと、化学反応は起きません。全てが「効率的な生産」と「消費」の社会では、つげ義春のような「種」は生まれても来ないし、芽も出さない、と思います。

ちなみに、「無能の人」の最終第六話「蒸発」の中に出てくる「井上井月(せいげつ)」なる人物、長くこれはつげ義春の創作だと思っていました。そこに引用されている井月の俳句も、つげ義春の作品と思い、えらくその文筆力に感嘆していましたが、これは実在の人物でした。当時は今のようにインターネットですぐに何かを調べられる時代ではなかったので、そのまま思い込んでしまったままになっていました。その作品中の句の一つ、「何処やらに 鶴の声きく かすみかな」という句が、何ともいえず、この「無能の人」の話を終える言葉として、深い余韻を与えてくれます。

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