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文学・評論 その25「坂口安吾 今改めて堕落論を読み返す」


本 坂口安吾の「堕落論」を読んだのはいつの頃か、記憶がハッキリとしません。タイトルから何となく「退廃的」な先入観をもって読んだと思うのですけど、そこにはまっとうな「正論」ともいうべきものが書かれていたことに拍子抜けするほどストンと腑に落ちた記憶が残っています。ただし、私にとって坂口安吾とは、そういった論客でも探偵小説の作家でもなく、「白痴」や「桜の森の満開の下」、「青鬼の褌を洗う女」のように、官能的、耽美であり、不条理を描く、印象的には谷崎潤一郎や安倍公房とダブるような(私がそう感じる)作家として私の本棚の中にあります。新潟を訪れた時、坂口安吾の「風の館」なる資料館の脇を偶然通りかかりましたが、時間が無かったので建物の外観を眺めただけですが、なかなかに風雅な雰囲気で、個人的には坂口安吾のイメージとの違和感を覚えました。まあ、私の主義として、「作家と読者の接点は作品のみ」ということもありますので、そうした類の資料館に足を向けることはありませんけど。

で、新聞を読んでいると坂口安吾の堕落論について書かれたコラムが目にとまりました。「生きよ堕ちよ」という言葉が、何とも改めて新鮮な言葉として目に映りました。ちょっと、懐かしいような…。ちなみに「堕落」という言葉を愛用の新解さん(国語辞典)で引くと、「(仏教で)仏に仕える、ひたむきな心を失って、俗人と同じような、欲に満ちた生活をすること」「健全な・態度(状態)を失って、不健全な態度や状態になること」とあります。では、坂口安吾が言うところの「堕落」とは…? 少なくとも、国語辞典通りの意味ではある筈もありません。彼はこう語っています。「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」。更にこのように続きます。「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる」。ここが、坂口安吾の言う「堕落」の本質でしょう。「欲があるから、健全さを失う」から「堕落」するというのが一般的な認識であると思いますが、彼の言葉は違います。「堕ちぬくためには、弱すぎる」と。つまり、「堕落できるほど、人は強くない」。

つまり「人は堕落しきることができない」ということでしょう。その理由が「弱さ」故…。それを理解するためには、文中の中でことさら語られてはいませんが、チラホラと出てくる「破壊」という言葉がキーワードになると考えます。坂口安吾がこの堕落論を発表したのは終戦の翌年、1946年です。日本は戦争により、国が滅びかけるほどに「破壊」され、その凄まじい光景は人類が始めて見るものだったでしょう。坂口安吾も東京でその様子を目の当たりにしています。恐ろしいほどに破壊されていく帝都の姿を。この堕落論と同じ年に「白痴」も発表されています。その最後の辺りのシーンはいまだに絵のように私の頭の中のイメージとして残っています。窓の外には帝都が破壊される戦争の風景。そして、その窓の内側には少女の怪しい美しさに溺れる男の姿。それが、何とも形容しがたいコントラストを持って記憶に残っているのです。「破壊」と「官能」。まさに理も非も無い「耽美」の光景。恐ろしい破壊の風景の中にある、剥き出しの弱い人間の姿。

堕落論の冒頭で、あの赤穂浪士の四十七士を「殺すことによって義士とした」話や、「童貞処女のまま愛の一生を終らせようと心中した若い男女」の話が語られています。そして、その前には「若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。(中略)女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない」と書かれています。坂口安吾は一体、ここで何を言うための伏線をはったのでしょうか? ネタバレにならない程度に、堕落論の中から今一度、坂口安吾の言葉を拾えば、「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」というものがあります。坂口安吾は、何某か「形式的なもの」「予定調和的なもの」「固定観念」なるものをもって成り立つ人間の姿をある意味、愛しもしたが、それが「人を本来的な生から遠ざけ、その力を奪うもの」と訴えているように私には思えました。

しかし、「人は弱く」、その生きる力を弱らせてでも何かの形にすがってしまう。例えそれが何であろうといいのです。論の中に在るように、それが「天皇」でも「孔子」でも「レーニン」であっても。これは戦争批判などではなく、人がその弱さから自らの生きる力と引き換えにすがりつく事で、ますます自分自身を失っていくという単純な構図を言い切っているのであると考えます。例え、日本が焦土と化しても、「人間的」なものはビクともしない。故に、その「脆弱さ、愚かさ」から自らを救うために「墜ち切ってしまえ」、その先に見える「自己の欲望」を発見することこそが、時代に翻弄されない「自分の姿が見えてくる」唯一の方法であると、坂口安吾が著した「堕落論」の中から、その言葉は聞こえてきます。つまりは「個」の確立でしょう。

では、その「堕落論」を今の社会を背景にして考えてみるとどうでしょうか。結論から先に云えば「やはり堕ちることができなかった故の日本人と日本がいる」ということになるかも知れません。「知れません」などとは無責任な言い方に聞こえるかもしれませんが、「堕落論」自体への解釈は人それぞれで、これまでに記したものは「私の解釈」です。それを今の社会に当てはめてみるのも、「私の論」です。日本は戦争の悲劇をもう70年間、味わうことなく(これから先は分かりませんが…)、かつてほどではないとしてもまだ「繁栄」しています。しかし「永遠に続く時代、社会」などというものがあるでしょうか。民主主義となって政治は変わりましたがその根本が変わっているとは思えません。政治に人が救えるわけがありません。軍隊は無くなりましたが、今は会社なるものがその代わりになっているように思います。「臣民」も、言葉だけが無くなっただけでしょう。忠誠、帰属など、みな変わっていません。「一億総中流」なんて時代もありました。「永遠に続く時代、社会」を夢見ている、つまり、「何も変わってほしくない」と願っている気持ちがますます強くなってきているだけでは。

坂口安吾の「堕落論」は空振り? 私はそう思います。終戦間無しの日本人の心を捉えた「堕落論」は何だったのでしょうか。余談かもしれませんが、「堕落論」に続いて「続堕落論」が同年に即出ます。これって「続」をつけなくてもいいように思いましたが、読むと今の時代のものとしても読めます。やはり、日本人は「堕ち切っていませんでした」。チャンチャン♪。で、話が終わると身も蓋も無いので、出来るだけ簡略に(マジに書いていくと、どこまでいくか分からない…)自分の考えるところを述べて、閉めます。「差別」「(経済的、人間的)格差」などという、本来的に全く根拠の無いものがまだまだまかり通り、「せっかく、先の大戦で焼け野原になったのだから(これ、実際に戦後に云われた言葉です)」、戦前とは違う日本を作り上げる機会があったはずなのに、それを逃して、そのままの形がズッと残っています。最近は「下流」なる層が創り出されているようで。であれば、その「下流」なる人たちが「上流・中流」なる人たちをいずれ超えたら、「下流」の域にある人は改めて「墜ちて」みましょう。今一度、坂口安吾の「堕落論」に心を捉えられるなら。

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