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文学・評論 その27「人は何者でもなく 何者かになる 宮沢賢治」


本 私個人の宮沢賢治に対するイメージは「透明感」の一言に尽きます。様々な作家が、その強烈な個性、存在感を示し、その作品は時に時代の中で火焔を噴き、まばゆいばかりの光彩を放ち、パラダイムの変遷をものともせずに生き残り続けて行きますが、この宮沢賢治に対してはそのような創作の腕力、己の価値観への耽美、強烈な主張といったものを、殆ど、というより全くといっていいほど感じません。ではその存在が「軽い」のか、といえば決してそうではなく、賢治の作品を読み続けているとチラリとその姿が現れるのですが、どうにも捉えきることができず、否応なく何かを「考えざるを得ない」のです。シンプルに言えば「いちいち気になる」、そういった存在です。まあ、私が感じる事ですから他の人の持っている「賢治像」までは分かりませんけど。

私は特に宮沢賢治ファンと云う事でもなく、一通りの作品は読みました。強烈に惹きつけられるところまでは行かないのですが、「気になる」作家です。もしかしたら、彼を作家と呼ぶべきではなく、とにかく「宮沢賢治」であると云う事なのかもしれません。その作品からは「人は何者でもない」と言われているような気が常にします。で、「だから何者かになる」というように、何やら禅問答のような心境になります。

はじめて読んだ宮沢賢治の作品は、多くの人がそうかもしれませんが、童話の「注文の多い料理店」です。その後が「風の又三郎」だったように記憶しています。私は、「その作品と作者は別物」と考え、本好きとしては「作品」とのみ対峙すべきという、妙な信条(?)を持っています。読書とは「その作家を理解することではない」という実に単純な理屈によるものです。まあ、本音を言えばなかなかそうはならないのですけど、例えば川端康成が晩年に自ら命を絶った事と、「伊豆の踊子」「雪国」などの作品と自分との接点は関係がありません。例えば、三島由紀夫が憂国の烈士として割腹した事と「金閣寺」などの作品と自分の接点、つまりそこで感じた事は関係がありません。ですが、宮沢賢治に関してはその作品の中にチラリチラリと、賢治自身が、言い方は悪いのですが幽霊のように現れてくるのです。まさに「透明感」です。

「彼を作家と呼ぶべきではなく」と前述しましたが、「作家ではない」という意味ではありません。あまりにも多面的な要素が宮沢賢治の中には含まれていて、作家であると云う事はほんの一部分ではないかと感じるのです。彼の作品にその「透明感」を始めて感じたのは「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」です。そして、「雨ニモマケズ」でその感覚は一層深まりました。これは賢治のいう「心象スケッチ(口語自由詩)」でしょう。手帳に書かれていたというその詩は、賢治他界後に、仕事用のトランクから見つかったといいます。世に作品として問うつもりが無かったのでしょうか。多分、そうだとそう思います。これは宮沢賢治という個人が「至ろうとした」、何者かであったのだと思います。こう聞こえてきます。「人は何者でもない。ただ一人在るのみ。だから何者かになろうとする」。宮沢賢治は、詩人であり、童話作家。教育者でもあり、仏教徒、菜食主義者、エスペランティスト、そして生涯独身で、さらには地質学フリークといってもいいのだろうと思いますが、その背景に「法華経」「自然」との強い関わりがあるとよく言われます。それを否定まではしませんが、私はあまりそういった(具体的過ぎる)ものを宮沢賢治の背後に感じません。

宮沢賢治に感じるのは前述したように「透明感」であり、彼の生き方は「人として何者かになろう」という思いをそのコアとしていると感じます。宮沢賢治の作品が本格的に世に出るのは、彼の死後であり、彼が生前に受け取った原稿料というものは5円で、それも一度きり。作家としての彼は、その一面を見せているに過ぎないのでは…。宮沢賢治は肺病を患い、37歳でその生涯を閉じますが、先の「雨ニモマケズ」の詩は、病で弱りきった体で書き上げたものでしょう。彼にはまだまだやりたい事が多くあったのだろう思います。その思いが一編の詩となったのだと感じますが、その「やりたい事」を通じて、彼は一体「何者」になろうとしていたのか。それを「強い個」であると云えばあまりに予定調和的だと思います。

これは私の思いなのですが、宮沢賢治は「人(自分)の弱さ」の全てと対峙し、そしてそこに「何者でもない」自分を見つけ、「人を助ける」「人を愛する」「世の中の役に立つ」といった、まさに「献身」としか言えない所に「何者かである自分」を見つけようとしていたのではないでしょうか。「何者かであるため」にはどうすればいいのか…。宮沢賢治がそこに見つけたものは「さいわい(幸い)」という、万人が享受できるものであると感じます。我が身ではなく「人(の世)が善く(好く)あれ」と、その生を費やすことが彼を「何者」かに導いてくれると信じ続けていたのでしょう。故に、彼の作品なりに触れる時、必ず「透明感」を感じてしまうのだと思います。「何者かであるように振る舞う」。下手な英語で言えば "behave as somebody" でしょうか。そうしたものを排し、「何者でもない自分」を認め、「何者かであろうとする」。

新聞(朝日新聞朝刊10/12)で見かけた「宮沢賢治」のコラムに、「私利よりも『ぜんたい』思う」「生かされているという幸福」という小見出しがありましたが、まさに…。そのコラムの最後に「銀河鉄道の夜」の主人公、ジョバンニの言葉があります。「僕はもうあんな大きな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさひわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」。そこに宮沢賢治がいます。

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