テキトー雑学堂 タイトルバナー

文学・評論 その28「"Laughing Skull" 髑髏の乾いた笑い 中原中也」


本 "Laughing Skull" …。この言葉を一体、どこで目にしたのかは記憶が定かではありません。しかし、頭の中にイメージとしてズッと残っているのです。もしかしたら、私の勘違いで、そのような言葉に出会ったことはないのかもしれません。とはいえ、ある作家を思う時にこのイメージが同時に湧き上がるのです。"Laughing Skull"ですから、そのまま訳せば「笑っている頭蓋骨(髑髏)」でしょう。そんな言葉が一般的にあるのかどうか…。私のイメージとしては虚空にある髑髏がカタカタと、その肉を失った口で笑い続けているのです。真面目に考えれば、表情としての肉を失っているわけですから、単に顎の骨がカタカタとなっているだけでしょうが、それが「乾いた笑い」として伝わってくるのです。では、何で笑っているのか? 感情などは及びもつかず、悲喜劇なども対象とならず、ただただ、笑い続けているのです。

先に「ある作家」と云いましたが、それは中原中也とランボーです。中原中也は訳詩として「ランボー詩集」を出版していますが、それを読んだことは(多分…)ありません。ランボーの詩を読んだのは、堀口大学の訳詩です。小林秀雄も訳詩していますが、そちらは読んでいません(多分)。訳詩と云う事で中原中也とランボウの接点はありますが、それをもって中原中也とランボーを重ねあわせている訳ではなく、別々に読んだ時のイメージからこの両者がダブるのです。そして、そのイメージとは、冒頭で述べた "Laughing Skull" です。中原中也には「雨」の背景がいつも感じられます。ランボーには「乾いた砂の荒野」の背景を感じてしまいます。これは両者の生まれ育った土地柄によるものなのかとも思いますが、あくまでも私個人が持ってしまうイメージです。

雨の降る中で乾いた笑いを続ける髑髏。それが中原中也に対する私の心象風景です。ランボーは乾いた砂の荒れ地を背景に笑い続ける髑髏。ここで中原中也とランボーとを対比させてその作品を考えてみようと試みている訳ではありません。ランボーはランボーでいつか別にテーマとして書いてみたいとは思っています。ただ、その両者に、同じような "Laughing Skull" という景色を感じてしまうと云う事だけです。

中原中也の作品に始めて触れたのは、ご多分に漏れず「学校の教科書」です。それは「サーカス」であったと記憶しています。この作品の中でとにかく頭の中に刷り込まれたのは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という言葉です。これは天井から垂れ下がった空中ブランコの様を現した言葉でしょう。この「サーカス」と題された詩の中には「人の気配」を感じません。「観客様はみな鰯(いわし)」との言葉はありますが、そこにいるのやらいないのやら。とにかく、宙で力なく揺れている空中ブランコが不規則に揺れているイメージが頭の中にあるだけであった記憶があります。詩は「幾時代かがありまして」で始まります。それゆえ、この詩を、彼が生きた当時の時代背景と合わせて読んでしまいそうになるのですが、彼は確かにダダイズムの影響を受けているとはいえ、それを以って、この詩を「批判」「時代(秩序)への反発」とは感じられません。その裏に、ただただ「乾いた笑い」を感じてしまうのです、私は…。

中原中也は夭逝の詩人であり、童顔のその写真だけを見ると、感受性の強い、「深い悲哀」とかの中に浸っているような感がありますが、実際にはかなりの酒好きで、酒乱の気もあり、作家仲間に暴力を振るったり、こき下ろしたり、恐がられているような性癖を持っていたようです。まあ、その辺はよくある事ですので作品の背景としてはあまり関係の無いことだと思いますが、そこに「鬱屈した暴力性」と云うよりも「拗ねた幼児性」のようなものを感じてしまいます。あの「ホラホラ、これが僕の骨だ」で始まる「骨」の詩を読むとなおさらそのように感じてしまうのです。この詩を始めて読んだ時、しばらくは何も感じなかったのですが(言葉としての面白さは感じましてけど)、何度か読んでいるうちに、作者の「不貞腐れ」のようなものを感じました。

中原中也の詩で一番有名なのは、おそらく「汚れっちまった悲しみに」でしょう。歌詞で使われることもありますし、「宇宙戦艦ヤマト2199」で、古代進の兄である古代守が愛読していた中原中也の詩集として、この「汚れっちまった悲しみに」が出てきます。私がこの詩を始めて読んだ時の感想は、単純明快、「カッコよすぎるよ…」、です。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」。何か、平成の世にもありそうな歌詞のようではないですか。事実、聞いたことはありませんが、曲にもなっているようです。この辺りに「カラカラ」と乾いた「笑い」ではなく、「嗤い」と書きたくなるようなものを感じるのです。「笑い」と「嗤い」は私にとって違うものです。「嗤い」はどこか自嘲的な、冷ややかなもので、決して明るさを伴う「笑い」ではありません。

何故でしょう? どうして私は中原中也の詩にそのようなものを感じてしまうのでしょうか? 学生の時に、雑誌「ユリイカ」の別冊で「中原中也」特集を買い、詠みましたが、その本は学生時代の本がまだ残っている今の私の書棚にはありません。いつかは忘れましたが(引っ越す時かな…)、ビリビリに破いて捨ててしまいました。その本にはビッシリと私があれやこれや赤いペンで書き込んでいて、やがてはそこに書き込んだ事が恥ずかしくなったからです。何をそんなに書き込んだのか。素直に云えば、何故か中原中也の詩を読んでいるとイライラし始め、作品をただ作品として読む事ができず、いちいち反論、もしくは覚えた違和感を書き込みながら読んでいたのです。我ながら、おかしなことと思いますが、その時はそのような行為にいたってしまいました。何を書き込んだのやら、具体的には忘れましたが、今読んだとしたら汗顔の至りでしょう。

中原中也の、その流れるような詩に、どうにも素直さを失っていく自分を感じた記憶があります。多分、ろくなことは書かなかった筈です。詩の脇に、まるでインターネットでの炎上のように書き込み続けながら、しかし、読み続けました。今、彼の詩を読んでもその頃のような感情は湧き起こっては来ません。教科書などに色々書き込むことはあっても、文芸作品に対して本にあれこれ書き込むなど、他に記憶がありません。おそらく、「その詩に共感」しつつも、その根本に感じるものを「受け入れる事」ができなかったのでしょう。下世話な表現で云うなら、その詩に「オチョクラレテ」いるように感じてしまったのです。コンフリクト状態でしょう。中原中也の詩の裏にはいつも "Laughing Skull" が現れてくるのです。私の場合。詩人の言葉が身に染みる経験は何度もありますが、中原中也の場合は、その言葉が体の中(心)に入って来そうになる事に抗っていたのでしょう。

「コンチクショウ! そんな乾いた嗤いなんか受け入れてたまるか!」なんて。読んでいる私自身も抱えている「拗ねた幼児性」が彼の詩によって剥きだされたのでしょうか。中原中也の詩にはそんな仕掛けがあるのでしょう。

文学・評論 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.