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文学・評論 その30「井上井月 あらゆるものに頓着せず、生きることができるなら…」


本 本編の「文学・評論 その23」で漫画誌のガロとつげ義春について書きましたが、その中で「井上井月(せいげつ)」のことに触れました。私は長く、つげ義春の「無能の人」最終第六話「蒸発」の中に出てくるこの井上井月という人物を、彼の創作であると思っていました。そしてその、井月の辞世の句とされている「何処やらに 鶴(たず)の声きく 霞かな」という句も、つげ義春の創作であると思い込んでおり、その才に感嘆していました。その句は、「無能の人」を終える最後の言葉として、まさに作品全体を、「漫画と文芸の境など有りはしない」という創作の高みへと昇華させていることに感じ入りました。しかし、井月は実在する人物だったのです。そして、その存在はつげ義春だけでなく、私が個人的に敬愛する種田山頭火にも少なからず影響を与えていたことを知り、彼の作品を世に出すきっかけとなったのが芥川龍之介であることも知り、その井月の姿を追ってみたくなりました。

井上井月の略歴を簡単に記すれば、1822年(文政5年)~1887年(明治20)、信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた俳人。本名は井上克三(いのうえかつぞう)だそうで、武家の出身であったと言われていますが、要は、伊那谷に現れるまでの三十数年間のことはよく分からないそうです。越後長岡藩の出身であることはほぼ確かなようですが。そして、彼は伊那谷で三十年余りを、放浪というか、よくまあ生きてこられたものだと呆れるくらい、テキトーに暮らしていたようで、宿を乞い、食を乞い、酒を乞い、金銭の蓄えなどもなく、それでいて生きていけたというのは、なんとも捉えがたい「空気」のような存在に思えます。

井上井月がそのような「生き方」をできたのは、彼に書と俳諧の才があったからであるようです。信州伊那谷は、Wikipediaから言葉を借りれば「多少好学の風があり、風流風雅を嗜む傾き」があったそうで、地元の趣味人から文化人として歓迎されていたからだとか。ただ、これは信州伊那谷に限ったことではなく、江戸時代の幕藩体制では、各地にそれぞれ「好学の気風と風流風雅」があったと思います。今ほど都市部への集中が激しくなく、ある意味、強い「地方分権体制」で、それぞれの土地土地に文化人、知識人が育っていたのではないかと考えます。その証拠に、幕末から明治維新に至る人材をみれば、まさに日本各地に名だたる知識人が散らばっており、それぞれに独自の知見・教養を育てていた事実があります。井上井月自身もそうした時代の空気の中で書や俳諧の才を高めていたのでしょう。

しかし、その生活ぶりは決して品位のあるものではなかったようで、女子供からは「乞食井月」とも呼ばれて、忌避されていたようです。まあ、確かにそのように見られても仕方のない生活をしていたのでしょう。何故、井月が信州伊那谷でそのような日々を送っていたのか、考えてみれば不思議に思いますが、住む土地としては信州伊那谷でなくともよかったのかもしれません。ただ、とにかく、食や酒に預かれて生きていくことができたし、書や俳諧を自分の思う通りに楽しむことができていたわけですから、それでよかったのでしょう。その姿を想像するに、「まったく何にも頓着しない」生き方が浮かんできます。「頓着」を愛用の新解さん(国語辞典)で引くと、もとは「貪着(とんじゃく)」でその変化だそうです。意味は「執着し、それにとらわれる意」とあります。生きていればそうした「頓着」から逃れるのはなかなかに難しいことですが、この井月は見事としか言いようがないほど「何事にも頓着しない」で生きていたように思えます。それは「自由」に通じるものなのでしょうか。

ですが、その井月も全く何にも「とらわれて」いないかと言えば、そうでもなく、松尾芭蕉を慕っていたようです(それを「とらわれる」と言っていいのかどうか?ですが…)。「我道の神とも拝め翁の日」という句を芭蕉忌を迎えて、詠っています。松尾芭蕉が残した句を慕って詠った句も多く残しているようです。人から見れば「乞食」同然のその姿の中に、俳諧の巨人への深い思慕と、並々ならぬ教養も持っていた…。彼の生き方にはどのような類型も当てはまりそうもありません。最後は野垂れ死に同然で六十余年の生涯を閉じています。

花を詠えば「降(ふる)とまで 人には見せて 花曇り」。秋を詠えば「落栗(おちぐり)の 座を定めるや 窪溜り」。酒を愛して、それを詠めば「よき酒の ある噂なり 冬の梅」。井月の心には、常にそうした景色が浮かび上がっていたのでしょうか。井上井月の姿を写した素描がありますが、まさに「尾羽打ち枯らした」ような風情の姿。それと彼の詠む句や、描く書とがどうにも結びつき難いのです。まあ、見た目でその才が分かるものでもないでしょうけど。個人的には「憧れ」のようなものを感じてしまいます。身一つで、何事にも頓着せず、その才の中に生きる。種田山頭火は「芭蕉や一茶のことはあまり考えない。いつも考えるのは井月のこと」と日記に書くほどに、その存在を慕っています。伊那谷を訪れて、その墓参りをすることが念願だったとか。そして、その没年である1939年(昭和14年)の前年にようやくその願いを果たし、その時にいくつかの句を詠んでいます。その中の「お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました」は、まさに山頭火の、これ以上は分解できない、直球ド真ん中の想いでしょう。

漂泊の俳人種田山頭火をもって思慕させる井上井月。今もどこぞに現れているのでしょうか。

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