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文学・評論 その32「中島らも もし、成り行き任せの生き方があるとしたら…」


本 自分が若い頃、中島らもという作家は、その作品世界よりも新聞での「人生相談」のコーナーや、何かの情報に紛れて知ってはいましたが、実際のところ明確なイメージは持っていませんでした。いわゆる、インターネットがここまで隆盛する以前のメディアに多数存在していたマルチタレントの一人くらいの認識しかありませんでした。まあ、全ての作家とその作品を残らず知っているわけでもないので、知らない作家はたくさんいます。意外と、評価の高い作家の作品でも何かのキッカケが無いと知らないまま、ということは多々あるでしょう。もちろん、一度読んでその作風が好きになれず、その後の作品を全く知らないという場合もありますけど。

一時期、出版社で物書きをしてお金をもらっていた時、担当の編集者から読んでみるように勧められたのが、中島らもの作品でした。いや、最初に勧められたのは中島らもが設立した「笑殺軍団リリパットアーミー」の演劇だったか…。そこは記憶があいまいなのですが、私、個人的に舞台芸術とやらが率直に言って苦手(あまり興味が湧かない)なので、演劇を見てはいません。まあ、理由としては、全ての人がゴルフを好きとは限らないといったような感じで、演劇をあまり面白いと感じたことが無いからです。映画は嫌いではないのですが、生身の人間が舞台の上で踊ったり演じたりするのは何か「気恥ずかしい」感じに襲われることが多く、唯一歌舞伎のみ、面白いとは思いましたが、まず、チケットを買ってまで見に行くことはありません。学生時代は周りに役者志向・舞台志向の者が多かったのですが、感化されるところなし…。

で、やはり本ですね。最初に読んだのは「今夜、すべてのバーで」。この作品には、私の好むSF的な展開も、活劇的なシーンもありません。アル中の主人公の話です。しかも、闘病日記というか入院日記というか…。連続飲酒からアル中へと至り、その症状と治療とがリアルに描かれています。ネタバレにはならないと思いますが、途中の医者とのやり取りなど、中島らもの作品の中で時々感じる「取って付けた感」のある劇中劇のようなものがあるのですが(私だけがそう感じるのかも、です)、私もお酒大好きのノンベエですので、その作品の持つリアリティに、妙に惹かれてしまいました。もちろん、淡々とした話の展開も面白いのです。それから続けていくつか中島らもの作品を読み続けました。私、気に入ると同じ作家の作品を飽きるまでズッと読み続けてしまいます。

「永遠も半ばを過ぎて」「頭の中がカユいんだ」「お父さんのバックドロップ」「人体模型の夜」「ガダラの豚」等々。「ガダラの豚」はインチキ奇跡のトリック破りや、呪術、日本の神話を思わせるような展開など、幕の内弁当の様な面白さで、もうおなか一杯、ってな作品です。「寝ずの番」は落語がモチーフですが、落語です。映画にもなったみたい。中島らもには活字でしか接していませんが、そのエッセイを読むと、とにかくまず「ジャンキー(薬物中毒者)」であり、あの名門灘中・高校出身の秀才(多分)であり、もともとは広告のコピーライターであり、その後の職業というか生業を列挙すれば、小説家、劇作家、随筆家、放送作家、ラジオパーソナリティ、ミュージシャン、多分他にも色々ありすぎて(漫画家など…?)訳が分からん。特にジャンキー的な面に関しては、有罪判決(執行猶予)まで受けている筋金入り(?)です。

あるエッセイの中で、アルカロイドが含まれるサボテンを自宅で育て、それで幻覚を見るという試み(?)が書かれていましたが、似たような、市販の咳止め剤による中毒や、大麻、有機溶剤、鎮静薬・睡眠薬によるトリップに関するレポート(?)はまさに実際に試したものでなければ分からないリアリティを持っていましたね。違法だどうだという遵法意識などこちらにもなく、無責任にそれらを読んで楽しんでいました。で、中島らも自身が「どうして自分がそうしたものに手を出すのか」ということをエッセイの中に書いていましたが、つまりは「トリップして、ジェットコースターに乗っているような楽しさを味わって、おじさんだってキャーキャーとはしゃぎたいのである」とか。確か、表現の正確さは別にして、そのようなことのようです。これ、私も同感…。しかし、自分も生身の体でそうした中毒系の薬物を受け入れられるかと言えば、度胸とかそういった問題でも法律といったそういう問題でもなく、まあ「想像の世界で留めておく」って感覚ですかね。そこまでは行かない、行けない(?)。中島らもは、キャーキャーと本当に行ってしまったようですが。

失礼ながら、中島らもという人物には、どうしても「行き当たりバッタリ」「成り行き任せ」ってな生き方を感じてしまいます。そこに明確な「志」なり「信念」の様なものは見えてこないのですが、おそらくそのような「無粋」なものは見せないのでしょう。中島らもを見ていると、何故か一休禅師とそのイメージが重なります。本サイトの「人文・思想その34」に「一休 暴れる感受性と才能の大浪費 大丈夫、なんとかなる!」を書きましたが、同様の形容を中島らもに対してもしたくなります。彼が薬物に手を出したのは、そこから作品への発想・着想を得ていたと言われてもいるようですが、そんなステレオタイプのことなどどうでもよいことです。一休禅師に感じる「暴れる感受性と才能の大浪費」、まさに同様のものを中島らもに感じてしまいます。

ネガティブではなくポジティブな意味で「成り行き任せ」の生き方というものがあるとしたら、それは現世で史上最強の生き方では。その辺りにはちょっと「憧れ」の様なものを感じてしまいます。自分の中に「才能」なるものがもしあるとすれば、それを予定調和的な世界で顕在させるのではなく、場違いなところ、あちこちで「大浪費」してみたい。これは、人が持つ「衝動」の中にあるものですかね。意味性などそこでは何の役にも立たない、とんでもない「ナンセンス」。で、キャーキャーと楽しんでみたい。

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