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文学・評論 その35「アンドロイドは電気羊の夢を …見るかも」


本 この本のタイトルを知ったのは大学の時、学内のあちこちに色々な喚き声(?)が書きなぐられていた立て看板(?)の中で、です。この立て看板なんて、今の大学にもあるのでしょうかね。アジテーション(文章や言葉などで人の気持ちを煽ること:Agitation)なんてのは、もう死語なのでは…。まあ、いわゆる学生の「運動・学内闘争」というコップの中の嵐みたいなものですけど(真剣にやっていた人、失礼)。私の学生時代はその学生運動の末期で、次第にそうした揮発性の高い感情は学内から消えていったころです。もっとも、夜には大学の周りに「公安」と思しき車がヒッソリと停まっていましてけど。

そうした大学の風景の中で立て看板に書かれた「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」といった文字を目にしました。最初は全く意味不明で、むしろアジテーションの言葉としては「腰砕け感」のある言葉だと思いました。その前後の言葉はとっくに忘れましたが、それを引き合いに自分たちの存在感を訴えていたような気がします。この「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」がアメリカの作家、フィリップ・K・ディックの作品名で、SFのジャンルに入る小説であることは、早川書房の日本人SF作家をきっかけにSF小説にのめり込み始めていたころに知りました。その当時は、筒井康隆や小松左京、光瀬龍、半村良、豊田有恒、平井和正などなど、日本人作家による作品を読み耽り、どちらかといえばアメリカ等、海外の作品はあまり読みませんでした。個人的に「翻訳もの」に馴染めなかったという理由もあります。なら元の言葉で読めよ、と突っ込まれそうですが、そうなると1日で読める作品が、1週間くらいかかりそうで。語学力が…。

で、1970年代といっていいと思いますが、アメリカの若者に圧倒的な支持を受けていた作家たちに、このフィリップ・K・ディックがいて、いずれは改めて書こうと思いますけど、カート・ヴォネガット・ジュニア、少々古典的な存在としてアーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフ(海外SF御三家)等々の作品にも手を出し始め、そこに描かれている世界に瞠目しました。それまで、特にアメリカのSFはスタートレック的(後のスターウォーズも)なスペースオペラ(略してスぺオペ)のようなエンターテイメント色がかなり強いものという偏見を持っていたのですが、そこに描かれていた世界はまさに文学的世界にSFを昇華させた、自分が好む日本人SF作家と同じような情緒性をもったものであることに気付き、そちらにも強く惹かれ始めました。事実、彼らは「スぺオペ」と少々軽く見られていたSFという「手法」を、文学の領域に根付かせたました。

で、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか(Do androids dream of electric sheep?)」ですが、そこにあるテーマはまさに「人間」…。今思えば、今日的な "AI" 、つまり「人口知能(Artificial intelligence)」と「人間の存在・人間性」をそこで語っていたのです。ネタバレ的なことは端折って、人の手によって作られたアンドロイドたちは自分たちの存在を「機械」ではなく、人と同じ「個」を持つものとして、それを訴えるための反乱的行為に至ります。ちなみに、この「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は、映画の「ブレードランナー」として、1982年に公開されていますが、その中でアンドロイドは「レプリカント」と称され、原作と同じようにブレードランナーと呼ばれる「レプリカント狩り」を行う役は、若き日のあのハリソン・フォードでした。

人間とレプリカントを見分ける方法は「検査」しかなく、その結果は確か絶対ではなかったと思います。つまり、本当の人間でもその検査でレプリカントであると判断され、「排除」される可能性があるという設定であったと思います。その検査は「レプリカントには感情移入する能力がない」という特徴を利用し、感情を刺激する質問を行うことで相手の呼吸、心拍数、赤面反応、目の動きなどを測定し、その感情移入の度合いを測る、という方法。数十問の質問を行い、レプリカントかどうかの判別を行います。余談ですけど、「感情移入の能力」は人間の精神活動が持っているものですけど、その能力が欠けている人間も現実には決して少なくないと思います。小説の中での、その人間と「アンドロイド」とのやり取りには、まさに「人間である条件とは」といった「神の領域」にすら入る、ある意味禍々しい、ある意味凛とした感情に襲われ、ザワッとした記憶が残っています。

ちなみに私は、映画のブレードランナーも見ましたけど、正直「違和感」を覚えました。どの小説でもそうなんですけど、それが映画(映像)という形になると、どうも自分が持っていた頭の中のイメージとズレが出て、それはあまり心地良いものではないからです。やはりこの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は小説の中の世界として自分の頭には残っています。余談ですが、フィリップ・K・ディックが1966年に発表した小説「追憶売ります(We Can Remember It for You Wholesale)」を映画化したSF映画があります。それは1990年公開された、あのアーノルド・シュワルツネッガー主演の「トータル・リコール(Total Recall)」。ディックの作品は原題がそのまま使われることが無いようですね。映画のタイトルになりにくいからでしょうか。

Wikipedia で見つけた言葉ですが、彼は自分を「小説化する哲学者(fictionalizing philosopher)」と称していたそうです。つまり、その作品作りに、彼の哲学が必ず込められている訳で、それは概観するに、「たかが人間」といった感情のように思えます。突き放しているといったニュアンスではなく、どれほどご立派になろうが、その中身に「何があるというのか」といった、ある意味、「科学、進歩する未来」への強い懐疑ではないかと思います。話がずれるかもしれませんけど、彼は作家である間もズッと貧しい生活を送っていたようです。で、ある日、ペットショップで金魚の餌を買うと、そこの店員から「金魚じゃなくて、あんたが食べるんだろ」と貧しい者を侮蔑する言葉を浴びせられます(パン屋で、犬の餌にするからとパンの耳を求めた時かも…。記憶が…)。そこでディックが特に激怒したという話は残っていません。もしかしたら逸話自体が作り話かもしれません。しかし、彼の「哲学」はそうした人間の持っている「たかが知れたもの」に、冷笑すら浮かばない「痩せた精神」を見出していたのかもしれません。

今日、様々に語られている "AI" なるもの…。期待、高揚、不安、驚異等々、どうにも混沌としか言いようのない感情の中で語られています。この "AI" は「電気羊」の夢を見るでしょうか。見るかも…。でも、見たところでどうなるのでしょうかね。そんな "AI" 騒ぎを、フィリップ・K・ディックならどのように言うでしょうか。おそらく、「出来損ないの人間が作るものは、出来損ないさ」、では…。

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