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文学・評論 その36「永遠に待ち続けるだけのもの… ゴドーを待ちながら」


本 「ゴドーを待ちながら(仏:En attendant Godot)」は戯曲ですけど、作者のサミュエル・ベケット(Samuel Beckett:1906年~1989年)は劇作家でもあり、小説家、詩人でもありますからこの編に書きます。って、能書きたれなくても、どこに書こうとよいのですけど、この演劇に関しては個人的に極めて「文学的」な印象を深く受けたので、その描かれた世界に対して様々に思いを巡らせてみたいのです。ちなみに私は「演劇」というものにあまり興味を持ったことは無いのですけど、その理由は、目の前で生身の人間が行っていることは、どうにも「それ以上」のものとして感じられないので、ちょっと自分から寄っていくことがない、という程度です。これが歌舞伎や能や、歴史的な様式美を持ったものや、映像の世界だと別なのですが…。まあ、個人の好みということで。

で、「ゴドーを待ちながら」なのですが、その舞台を見たのは生ではなく、テレビでです。演劇の舞台をテレビで放映していたものを見ました。サミュエル・ベケットの名も、「ゴドーを待ちながら」の凡その内容も知っていましたが、何故かチャンネルを変えることなくそのまま見てしまったのです。よくテレビで演劇やオペラなんかをやっているとすぐにチャンネルを変えていたのですが、その時はそのまま見てしまいました。理由は、「不条理劇」とは、という一点に興味があったからです。不条理となればカミュやカフカ、日本には筒井康隆がいますが、それを「演劇」という、個人的にやや斜めに見てしまうものの中でどのように展開させるのか、少々興味を持ったからです。

詳細な内容は置いといて、私の記憶にある、興味を持ったことだけに絞って考えてみます。まずその冒頭シーンですが、田舎と思しき場所に木が一本立っていて、そこで二人の男が「ゴドー」を待っています。そのシーン自体は拍子抜けするほどに単純なものです。二人の名前はエストラゴンとヴラジーミル。その姿は老いた浮浪者。二人はその場所で「ゴドー」を待ち続けます。結論から言って、この話は、その二人が、ゴドーという人物をひたすら待ち続けるという、ただそれだけのお話です。他の登場人物に、そこを通りかかるポッツォとラッキーという名の人物がいます。ラッキーはポッツォの従者で、市場に売られていくという設定です。この二人の関係や行動に「心理学的」な観察手法を用いる評論もあるようですが、全体を貫いているのは「不条理」ですから、そうした分析を施すのはいかがなものか、とは思います。まあ、そこは見る人の自由でしょうね。

私はそのマンマで感じた事を書いてみたいと思いますが、余談としてあるWEB上の文章で、この4人の登場人物の名に関して面白いことが書いてありましたのでご紹介します。「エストラゴンはフランスの名前、ウラジミルはロシアの名前、ポッツォはイタリアの名前、ラッキーは英語の名前」だそうです。そう言われればそうですね。この辺りはシンプルに「無国籍」的な空間の中にあるお話、ってな理解でもよろしいのではないかと思います。そこに意味を見出そうとするとズルズル行きますから、感じることで留めておきます。正直言って実に退屈な演劇であると思います。おそらく、最初の頃はあまり芳しい評判ではなかったでしょう。しかし、それが「不条理劇」の金字塔として演劇史にその名を残しています。それは「何故?」。

通常、古代ギリシャの演劇にしても、シェークスピアにしても、もちろんヨーロッパ流の近代的な演劇、日本の「新劇」にしても、そこにはストーリーや、観客が共有できる背景がありますが、「不条理劇」にはそういったものはありません。いきなりです。何故そういう設定なのかなど誰も説明されないし、観客は物語の背景や展開を手探りで想像するしかない「不条理」さの中にポイと投げ込まれ、舞台と対峙することとなります。まことに不条理。そこには勧善懲悪とか悲劇・喜劇とかいったお約束もなければ、安心感をもたらしてくれるような予定調和もありません。ハスッパに言えば、ひたすら訳の分からない展開に引きずられていくだけです。しかし、そこに「惹きつけられる」のが事実なのです。しかも、けっこう強烈に。そして、多くの不条理劇が存在します(個人的にはあまり興味がない…。ご容赦)。

「不条理」とは文学における最大のテーマであると考えていますが、その不条理を遅ればせながら愛用の新解さん(国語辞典)で確認すると「事柄の筋道が立たない・こと(様子)。[哲学では、人生に意義を見出す望みの全く絶えた限界状態を指す]」、だそうです。後半の説明は新解さんらしさを感じはしますが、それって「面白くない」ですよ。だって、カフカの「変身」を読んで、そんな事、感じる人っているのかな? 少なくとも私は「望みの全く絶えた」姿を、虫となってしまった主人公に感じはしませんでしたけど。ってまあ、個人的には「不条理」をこのように定義したいと思っています。「本当は皆気付いているとんでもなく不都合なことを、そうではないことにしておこう」って事ではないですかね。だから、その不都合をひたすら見ないように努め、それを訴える者があれば徹底的に排除しようとする…。故に、世にある「知性」は自己の存在と社会的排除の間(はざま)に在って、その「不条理」なるものを「作品性」を持つものに昇華させていくのでは。猛烈なる「知」の疲弊を伴って。

エストラゴンとヴラジーミル、そしてポッツォとラッキーたちを「世界」として捉えれば、その世界は「永遠に来ないもの、無いもの、更に付け加えるなら、求めて止まないもの」を「待ち続ける」という行為でしかそれを「実存」として捉える(在らしめる)ことができない、という解釈も成り立つと考えます。"Godot" を "God(神)" であるとする解釈もあるようですが、そこはどうでもいいのです。「待つことでしか存在し得ない」ものなのですから、どのような言葉でもとりあえずは当てはまります。「希望」「救い」「輝く未来」「幸福」等々…。私が "Godot" としてそこに置きたいものは「永遠の不在」です。全くド外れたことを書いて終わりにしますけど、この演劇を私としては珍しく一通り見て、とにかく思い浮かべたのは、釈迦牟尼仏の入滅後、56億7千万年後の未来にこの世界に現われ多くの人々を救済するとされる、「弥勒信仰」です。変? いいんです。

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