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文学・評論 その7「言葉の錬金術師 異化の奇才 大虚構 寺山修司」


本 正直言って、個人的には寺山修司に対して殊更な興味を持ったことはあまりありませんでした。失礼ながら、寺山修司なる人物に対して一番インパクトの強い出来事といえば、「明日のジョー」の力石徹の葬儀を提案・実行したということです。それ以外には「時には母のない子のように」「力石徹のテーマ」等の作詞家、そして有名(と、思います)な短歌「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」くらいです。この短歌はかなり好きでしたが、私はそこまでです。しかし、私の周りには彼に関して造詣の深い友人知人がいます。せいぜい私自身の接点は、彼とは同じ大学の同じ学部出身だった、ということくらい(これは、どうでもいいか…)かな…。それは、かなり後になって知った事ですけど。しかし、彼の存在は時代の中でとてつもなく大きくクローズアップされています。実は、私、寺山修司なる人を「何」と捉えて良いのか分からないのです。有名な話ですけど、本業を聞かれると、「僕の職業は寺山修司です」と答えるのが常であったそうです。
   
寺山修司の膨大な作品は、俳句、短歌、詩、エッセイ、評論、テレビ・映画の脚本、短編小説、作詞として残り、一世を風靡した劇団「天井桟敷」を結成し、競馬では尋常ならざる造詣の持ち主で、馬主でもあったとか…。どこから眺めればその姿が見えてくるのでしょうか。リアルタイム(1983年没)では殆ど興味を持つ事も無かった寺山修司に興味を持ったのは、ホンの些細なことからでした。私が好きだったあの「マッチ擦るつかのま~」の短歌が、実は盗作であったと知った時です。盗作事件というのは文芸に限らずよくある事なのですけど、やはり、「盗作はよくない」という既定路線の道徳観ではなく、単純に驚いたという本音があります。

それは、その歌の価値が下がる訳ではないと思いつつも、寺山修司の創作というものが与えてくれた刺激の水源が「彼にではなく、他の人にあったのか…」という戸惑いです。盗作の元を調べようなどとは思いませんでした。知ったところでどうなる訳でもありません。が、たまたま、ある本で盗作の元とされたその歌を見た時、「えっ、これで盗作…?」、そう思いました。確かに似てはいますが、それなら日本語を使って表現したら、それは日本語で表現したものの盗作、って事になりますか? 和歌の世界でも「本歌取り」があるじゃないですか。歌に「奥行き」を付けるための…。
  
時間が経っているのでシンクロニシティー(共時性:きょうじせい)ではありませんが、たまたま最近の新聞(朝日新聞2013年10月14日朝刊)にその事が記事になっていたのを目にして、その事を思い出しました。もう忘れていましたけど、寺山修司の「模倣」は短歌のデビュー当時から有名だったそうで、あの私が知っていた歌の下敷きになったのは次の二つだそうです。「一本のマッチを擦れば 海峡は目睫(もくしょう)の間にせまる」(目睫は新解さんによれば、「睫はまつ毛の意 目前の意の漢語的表現」とあります)、田中冬二。「一本のマッチをすれば湖(うみ)は霧 めつむれば祖國は蒼き海の上」富澤赤黄男(かきお)。これを以って「模倣」「盗作」というのであれば、歴史上で一度使われた表現を後の者が使えば全て「模倣」「盗作」という事になります。極論ですが…。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」。この三つの歌の共通点は「言葉を抜きにすれば」、表現こそ違え、複雑な「望郷の念」であると思います。深読みの必要はないと考えます。であれば、私はやはり「身捨つるほどの祖国はありや」が秀逸であると思います。少なくとも私自身には。
    
何か寺山修司なる存在が「腑に落ちた」ような気がします。彼が「言葉の錬金術師」と呼ばれる所以は、先の両氏の歌には、何か着地に「いまひとつ物足りなさを感じる」者が、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」という言葉に、歌としての完成を感じるからではないでしょうか。両氏の歌を貶めるつもりなど毛頭ありません。しかし、寺山修司の手にかかって(目に留まって)しまったのです。で、もう一度言葉の「坩堝(るつぼ)」に入れられた訳です。その中から出てきたものは、まさに「寺山修司」。彼の多面的で多才と見える多くの仕事が、そう考えれば理解できます。彼にとってはすべてが「材料・原料」であって、旺盛な食欲(?)でもってそれを自らの「坩堝」に叩き込む。そして、常に出てくるのが「寺山修司」なのでしょう。故に多面的であり多才である、と。遠目に見ていては捉えきれない存在な訳です。その「寺山システム」なるものを知らなければ。
    
私は、彼を「言葉の錬金術師」というより、「異化の奇才」「大虚構」と呼びたくなります。まさに「異化:私的定義は、当たり前の日常的なものを、非日常的な新鮮な表現に転化する事」という表現を使う以外に、寺山修司の仕事を語る事が出来る言葉は無いように感じます。自らのメタモルフォーゼ(変身)ではなく、対象への彼の眼はいつも同じで、そこにいまひとつ「異化しきれていないもの」「非日常のように見えて、実は日常であるもの」「自動的に同じ作業から生まれた物足りぬもの」、そうしたものを見つけては喰らっていく。寺山修司という個体は稀な事に、どこからそうなのかは知りませんが、ある時から全く変わらない個体であったように思えます。自身が「メタモルフォーゼ」によって変容していくのではなく、いつも同じ目で何かを捉え、それを「異化」していく…。

現実が「虚構」なのではなく、「自動化により異化しきれない」できそこない(中途半端)であるとすれば、彼はそれを捉えて、サラリと新鮮な「虚構」に仕上げていく。誰も気づかないうちに、寺山修司という「大虚構」を作り上げていくのではないかと思えるのです。せせら笑いもなく、ニヒリズムもなく、「大真面目」に「言葉」の力を使って。我々と作家たちとの接点は「作品」ですが、彼の場合は違うでしょう。「寺山修司」という作品を理解しなければ、その「大虚構」に鼻をつままれたままです。そこに作家としての「私」など見える筈もない。なるほど、彼の生業は「寺山修司」である訳です。

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