文学・評論 その7「言葉の錬金術師 異化の奇才 大虚構 寺山修司」

■寺山修司の膨大な作品は、俳句、短歌、詩、エッセイ、評論、テレビ・映画の脚本、短編小説、作詞として残り、一世を風靡した劇団「天井桟敷」を結成し、競馬では尋常ならざる造詣の持ち主で、馬主でもあったとか…。どこから眺めればその姿が見えてくるのでしょうか。リアルタイム(1983年没)では殆ど興味を持つ事も無かった寺山修司に興味を持ったのは、ホンの些細なことからでした。私が好きだったあの「マッチ擦るつかのま~」の短歌が、実は盗作であったと知った時です。盗作事件というのは文芸に限らずよくある事なのですけど、やはり、「盗作はよくない」という既定路線の道徳観ではなく、単純に驚いたという本音があります。
■それは、その歌の価値が下がる訳ではないと思いつつも、寺山修司の創作というものが与えてくれた刺激の水源が「彼にではなく、他の人にあったのか…」という戸惑いです。盗作の元を調べようなどとは思いませんでした。知ったところでどうなる訳でもありません。が、たまたま、ある本で盗作の元とされたその歌を見た時、「えっ、これで盗作…?」、そう思いました。確かに似てはいますが、それなら日本語を使って表現したら、それは日本語で表現したものの盗作、って事になりますか? 和歌の世界でも「本歌取り」があるじゃないですか。歌に「奥行き」を付けるための…。
■時間が経っているのでシンクロニシティー(共時性:きょうじせい)ではありませんが、たまたま最近の新聞(朝日新聞2013年10月14日朝刊)にその事が記事になっていたのを目にして、その事を思い出しました。もう忘れていましたけど、寺山修司の「模倣」は短歌のデビュー当時から有名だったそうで、あの私が知っていた歌の下敷きになったのは次の二つだそうです。「一本のマッチを擦れば 海峡は目睫(もくしょう)の間にせまる」(目睫は新解さんによれば、「睫はまつ毛の意 目前の意の漢語的表現」とあります)、田中冬二。「一本のマッチをすれば湖(うみ)は霧 めつむれば祖國は蒼き海の上」富澤赤黄男(かきお)。これを以って「模倣」「盗作」というのであれば、歴史上で一度使われた表現を後の者が使えば全て「模倣」「盗作」という事になります。極論ですが…。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」。この三つの歌の共通点は「言葉を抜きにすれば」、表現こそ違え、複雑な「望郷の念」であると思います。深読みの必要はないと考えます。であれば、私はやはり「身捨つるほどの祖国はありや」が秀逸であると思います。少なくとも私自身には。
■何か寺山修司なる存在が「腑に落ちた」ような気がします。彼が「言葉の錬金術師」と呼ばれる所以は、先の両氏の歌には、何か着地に「いまひとつ物足りなさを感じる」者が、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」という言葉に、歌としての完成を感じるからではないでしょうか。両氏の歌を貶めるつもりなど毛頭ありません。しかし、寺山修司の手にかかって(目に留まって)しまったのです。で、もう一度言葉の「坩堝(るつぼ)」に入れられた訳です。その中から出てきたものは、まさに「寺山修司」。彼の多面的で多才と見える多くの仕事が、そう考えれば理解できます。彼にとってはすべてが「材料・原料」であって、旺盛な食欲(?)でもってそれを自らの「坩堝」に叩き込む。そして、常に出てくるのが「寺山修司」なのでしょう。故に多面的であり多才である、と。遠目に見ていては捉えきれない存在な訳です。その「寺山システム」なるものを知らなければ。
■私は、彼を「言葉の錬金術師」というより、「異化の奇才」「大虚構」と呼びたくなります。まさに「異化:私的定義は、当たり前の日常的なものを、非日常的な新鮮な表現に転化する事」という表現を使う以外に、寺山修司の仕事を語る事が出来る言葉は無いように感じます。自らのメタモルフォーゼ(変身)ではなく、対象への彼の眼はいつも同じで、そこにいまひとつ「異化しきれていないもの」「非日常のように見えて、実は日常であるもの」「自動的に同じ作業から生まれた物足りぬもの」、そうしたものを見つけては喰らっていく。寺山修司という個体は稀な事に、どこからそうなのかは知りませんが、ある時から全く変わらない個体であったように思えます。自身が「メタモルフォーゼ」によって変容していくのではなく、いつも同じ目で何かを捉え、それを「異化」していく…。
■現実が「虚構」なのではなく、「自動化により異化しきれない」できそこない(中途半端)であるとすれば、彼はそれを捉えて、サラリと新鮮な「虚構」に仕上げていく。誰も気づかないうちに、寺山修司という「大虚構」を作り上げていくのではないかと思えるのです。せせら笑いもなく、ニヒリズムもなく、「大真面目」に「言葉」の力を使って。我々と作家たちとの接点は「作品」ですが、彼の場合は違うでしょう。「寺山修司」という作品を理解しなければ、その「大虚構」に鼻をつままれたままです。そこに作家としての「私」など見える筈もない。なるほど、彼の生業は「寺山修司」である訳です。
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★歴史・地理 その31「何故日本はドイツや朝鮮のように分割されなかったのか?」
★文学・評論 その11「戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉」
★人文・思想 その17「仏に逢うてはこれを斬り… 禅の破壊力」
★文学・評論 その39「森鴎外 『寒山拾得』 文学に解釈で臨むと…」
★社会・政治 その18「パーキンソンの法則 組織は膨張しきって終わる」
■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
