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文学・評論 その9「三島由紀夫 割腹をもって何を表現したのか…」


本 三島由紀夫の名を初めて知ったのは作家としてではありません。まだ子供の頃の1970年11月25日、あの「三島事件」の自決でその名を知りました。ニュースで見た三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛省)バルコニーでの演説の姿に、何か大きな事件が起きているという感はありましたが、それが作家である事などはまだ知りませんでした。白鉢巻に白手袋で、漫画の世界でしか見た事のないデザインの「軍服」姿で何かを甲高い声で訴えている姿に、子供の身としては身近さも現実味も感じませんでした。しかし、次の日の新聞だったか、三島由紀夫の介錯された「生首」の写真を目にした時は、「何かの事件が起きた」程度の認識しかない子供にとって、それが経験した事のない「オドロしい」ものに感じられた記憶があります。けっこう強烈な…。

その後に三島由紀夫なる作家の作品を知り、いくつかは読みましたが、どうにもあの三島事件の印象が強烈で、それ以上のものは三島由紀夫の何を読んでも感じる事ができませんでした。かろうじて「金閣寺」を読んだ時に、極めて耽美的な内容に、鮮やかな映像が浮かんでくる思いを持ったくらいでしょうか。それ以外は、「潮騒」にしても「不道徳教育講座」にしても、そのビッグネームに比して何故か(個人的には)作品の印象がボヤッとしか残っていません。
      
俗な目で三島由紀夫を眺めれば、高級官僚の父親と高名な学者の母親との間に生まれ、戦前の学習院に入学し、東京(帝国)大学の法学部を卒業、そして大蔵省へ入省…。絵に描いたような、惚れ惚れとするエリートです。そして、その文才は幼少の時から開花し始め、学習院中等科の頃には「盗作では」と疑われるほどに完成度の高い詩を書いていたようです。三島由紀夫はその事を自著の中で「詩はまったく楽に、次から次へ、すらすらと出来た」と書いています。子供の頃は病弱だったそうで、小柄な事と自分の容貌にコンプレックスを持っていた(それゆえ、後年、ボディビルやボクシングをやって、その肉体美を写真集にしています)ようですが、「それくらいはいいじゃない」と言いたくなります。

余談ですが、三島由紀夫の介錯に使われた刀は「関孫六」だそうで、自身の所有する自慢の日本刀だそうです。もしそれが、「尖り瓦の目(三本杉:乱れ波紋が三本並んだ杉のように見える)」二代目兼元の作なら国宝ものでしょ。そんな日本刀を所有しているなんて、一日本刀愛好者としては、畏怖の念すら持ちます…。それを「(旧帝国)軍刀拵え」に入れていたとは。三島由紀夫とは、何者…。
    
「三島事件」があったのは、日本で「万博」が開催された年で、日本人が高度経済成長を謳歌し、各家庭には新三種の神器(自家用車、洗濯機、冷蔵庫)が相当に普及しており、敗戦の記憶などもうとっくに薄れている時代です。その時代になぜ三島由紀夫はあのような事件を起こしたのか…。当時の自衛隊(今もそうだと思いますけど)が自分の演説に共感して、クーデターを起こすなどと、彼は本気で思っていたのでしょうか。とても、そうは思えません。では、作家にありがちなただの酔狂なパフォーマンス? そうとも思えません。では一体、あれは何だったのでしょうか?

これはあくまでも個人的な「今に至っての思い」ですけど、あの「三島事件」は彼を三島由紀夫たらしめる、最終作品、彼の作品群を貫く「日本の美意識」を完結させるための最終章ではなかったのか、と考えるのです。三島由紀夫は古典への造詣も深く、戦前日本の空気も知っています。私は彼の作品を読んで「三島由紀夫は神秘主義?」と感じましたが、あながち、それは的外れではないと思います。彼の友人(?)でもあり理解者でもある美輪明宏も言っていたと記憶していますが、三島由紀夫の考える「日本の美意識」には、レベルの高い「霊的な格」があると。これは、そういったものを信じるとか信じないとかではなく、私個人としては「知よりも肉に至るような感覚」として、頷けます。
     
偏狭なナショナリズムではなく、歴史好きとしては、日本の文化(=美意識)について考える時、そういった「霊的な格調の高さ」を感じざるを得ないのです。他国の文化を引き合いに出すのは申し訳ないので止めますが、日本の文化と類似点を持つ文化は「日常感覚的にやや似ている」といった程度のものはあっても、分かりやすいほど対照的なものの方が多いのは事実です。三島由紀夫の作品、というかその世界には常に「霊格の高い芸術性」が漂っていると感じます。ちなみに私はそれほどの三島由紀夫ファンではありませんけど、そういったものが欧米の知識人に好まれる要因ではないかとも思います。正直に言います。日本人である私にとっては、逆に、その「霊格の高い芸術性」なるものが濃厚すぎて、ちょっと胃もたれするような(失礼)感じなのですけど…。

「金閣寺」の、物語のプロットとしては「倒錯性」ということで比較的簡単に捉えられるのですが、それをあれだけの濃密な「文章、表現」で描かれれば、「文字を絵具にする」とでも言えばいいのか、行間から映像が浮かび上がってきます。篝火の光で幽玄の世界を舞台に作り上げるような、まさに「霊格の高い」としか表現できないような世界だと思います。そうしたものと「三島事件」はやはり、あるところでつながってくるのです。それは、三島由紀夫の「割腹自殺」が、同時に「日本的美意識」の自殺だった、という事です。あのバルコニーが三島由紀夫の、最期の作品、最期の表現だった、そう考えざるを得ません。

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