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人文・思想 その10「デカンショで哲学を楽しみません? テキトーに」


本 学生時代に「デカンショとは、デカルト、カント、ショウペンハウエルをまとめて略したもの」ということを先輩から言われて、しばらくは真面目に信じていました。実際は兵庫県篠山市辺りで歌われる盆踊りの民謡だそうで、「デカンショ」には「出稼ぎしよう」とか「どっこいしょ」が訛ったものなど、諸説あります。とはいえ、実際けっこう古くから哲学を学ぶ(?)学生の間で歌われていたようです。ちなみに歌詞は「デカンショ、デカンショで半年暮らす、アヨイヨイ、あとの半年ぁ寝て暮らす、ヨーオイ、ヨーオイ、デッカンショ♪」です。

余談、失礼しました。この哲学なるものを楽しむにしても、いきなりストレートの直球から入るとまず打ち返されてしまいます。初球はヘロヘロのカーブから無難にストライクゾーンを外して様子を見ながら「勝負!」と行った方が無難です。そうでないと初回から失点して、いきなり追い詰められるか、降板させられるか、寝てしまうか、どこかの世界に行ってしまうか…。ユルユルとテキトー精神で楽しみましょう。実際に楽しいのです。まさに合法ドラッグの如く、頭をトリップさせてくれますから。ちなみに、この哲学なる言葉、元幕臣にして明治期の啓蒙思想家、西周(にし あまね)が"philosophy"を「哲学」と訳語したというのはよく知られている事です。
      
それではまず「デカンショ」の「デ」、デカルトから行ってみましょう。デカルトといえばフランス生まれの哲学者にして数学者。近世哲学の巨人であり、近代哲学の父です。デカルトの「我思う、ゆえに我在り(Cogito,ergo sum:ラテン語、コギト、エルゴ スム)」は哲学史上、最もよく知られている言葉(命題)で、平たく(テキトーに)言えば、それまでの中世的な「神への信仰から真理を探究する」から「人間の持つ自然な理性から真理を探究する」事への出発点となった言葉です。ラテン語の解釈次第では「思いつつある私は、在る」とも訳せたような…。ポイントは古代ギリシャから連綿と続く哲学の形而上学的な手法を、できる限り人間の思考しうる方法と論理でその対象となるものの存在を明らかにする、というところです(ふー、もう息が切れてきました…)。プロの哲学者からみれば「突っ込みどころ満載」でしょうが、そもそもが「真理」だ「神」だ「世界」だを対象にするのですから、そこに絶対正しいも間違いもありません。そもそもが哲学とは「学術的論争」の産物ですから。臆することなく行きましょう。
     
つまり、デカルトは「真理なるものの探究」を「神」の手から引き剥がし、「人間」の側に取り返したのです。しかし、「神」を否定している訳ではありません。むしろ、その神のおかげで「考える主体(人)が存続している」としています(もう、一瞬レッドゾーンに入った方もいらっしゃるかもしれませんが、続けます)。デカルトは先に述べたように数学者でもあります。もともと哲学とはこの「数学」から派生してきたものです。数式による表現か、言葉による表現かの違いであって、話は飛びますが、アインシュタインの相対性理論だって、この上なく哲学的で、量子論の面々にはその研究の果てに「神」の存在を感じる学者が70%位いるそうです(ウロ覚え)。70%といえば、統計学的には「殆ど」といっても良い位の数字です。で、哲学的になる物理学者も多いとか…。デカルトは、数学的、幾何学的な「知」が対象物の存在(外在)と対応できるとして、後の「機械論的世界観」へとその理論を発展させて行きます。人を自然の主人公とするための「知識」へ到達する事こそが哲学ですから、科学は重要な要素だった訳です(この辺りは、厳密な定義”Strict Definition”よりも、ニュアンスとして、脳で直感的に感じましょう)。

しかし、デカルトの生きた17世紀といえばガリレオが地動説を唱え、ローマ教会の異端審問所がその説の破棄を求めるという有名な事件が起きています。「神」を相手にするにはまだ命がけの時代だったのです。結局、デカルトも「機械論的世界観」を解き明かした「世界論」の刊行を断念しています。その代わりでもないでしょうが、数年後には知る人ぞ知る「良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に配分されているものである」の書き出しで始まる「方法序説」を刊行しています。この方法序説は思索の順序、方法を分かりやすく著したもので、デカルトの核心を知るための一冊でしょう。しかし、宗教裁判でガリレオのように異端とされることを怖れ、別の名前で刊行していたようです。そりゃそうですよね。最悪の場合、火あぶりになる訳ですから。この時代の教会はまだ「暗黒」の中にあり、異端の名のもとに自らの権威を守るため、人を殺していた組織ですから。さすがのデカルトもまだ、神の手から「真理の探究」権を取り戻すのには苦労していたという事です。
     
次は「デカンショ」の「カン」に行きます。ドイツ観念論哲学の大御所、ドイツ生まれのカントです。ちなみに、ドイツ観念論哲学なる言葉が最初からあった訳ではありません。ドイツ古典主義哲学やドイツ理想主義哲学とも呼ばれる場合があります。哲学は、そうそう簡単に整理・グループ化できる(される)ものではありません。何故なら、私見ですが、哲学は極めて個人的な「思弁、思考実験」の賜物であり、共同作業で成し得るものではないからです。学者の間ではカントがドイツ観念論に属するのかどうか、見解が分かれています。もしカントが生き返り、様々なカントに関する記述を読んだ時、もしかしたら「そのカントってのは、俺の事か?」、なんて言われるかも、です。それは置いといて、ドイツ観念論哲学といえば、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの名が挙げられます。ここでポイントとなるのはやはり「神」です。この辺り、キリスト教にあまりご縁のないわれわれ日本人には当然分かり難い世界です。彼らの、言ってみれば「神」との対峙関係は、時には命に係わる問題ですから。カントは形而上学の命題の最たるものである「神」を認識、「知」の対象とせず、「神への信仰は行動であり、それは人にとって必要なもの」ってなあたりで納めていますが、他の哲学者にとっては「神」がまさに「知」によって証明すべき最大のテーマでした。

カントにとって、「アプリオリ」という概念が示すように「経験的な認識に先立つ先天的な認識(プラトンのイディア論に近いような…)」から考えれば(カントも多少は経験論的なものは受け入れているようですが)、神でさえ「自我」を中心とした「理想」の中に含まれ、「存在と観念」という二元論を一元論に統合するべきだったのでしょう。ちなみに、カントは同業者(?)との折り合いが悪かったようです。カントの考えに心酔した者を「誤解している!」と非難するような方ですから。じゃあ、その誤解を解いてあげればいいのに…。しかし、その「理想が現実を支配する」という考えは、良かれ悪しかれ、多大なものがあり、あのマルクスにまで影響を及ぼしています。
      
ハイ、カントを「息を止めて」走り抜けたので、脳が酸欠状態ですが、「デカンショ」の最後、ショウペンハウエルに行きます。ショウペンハウアーとも表記されますが、この方は哲学者というより、法律学、自然学、芸術等、相当に守備範囲の広い、ポーランド生まれの学者です。余談ですが、タレントの清水国明氏がこのショウペンハウエルに心酔しているとかで、ラジオ番組の中で滔々と語られていました。このショウペンハウエルは18世紀の末に生まれた人ですが19世紀の人といっても良いでしょう。要するに近代へ向かう途上の方ですので、デカルトやカントよりも比較的分かりやすい哲学者です。この方の最大のテーマは「人の幸福」でしょう。とにかく哲学者としては人柄が良く(失礼)、数多くの名言を残しています。例えば「人生は、苦痛と退屈との間を、振り子のように揺れ動く」「私は一介の案内者に過ぎない」とか。

このショウペンハウエルがニーチェに多大な影響を与えている事は有名のようですが、個人的にはニーチェの「斜に構えたような目線(偏見?)」がちょっと、あれで…、二人の関係は「優しく教育熱心な先生と、純粋だけど捻くれた学生」のような…(失礼)。ショウペンハウエルの分かりやすさ(身近さという意味で)は、やはりその思想のコアに「仏教・東洋思想」があるからでしょう。「人の幸福」を考え始めた原点には、少年時代にナポレオンの戦争によって荒廃したヨーロッパの風景があると思います。ショウペンハウエルの著書に「意思と表象としての世界」がありますが、ここにカントの影響が見られます。カントと同様に「物」自体は表象されないと考えていたようです。
    
以上、空中分解覚悟で「哲学」についてチョコッと書いてみましたが、私見ながら「哲学とは考えるための学問」であると思っています。「考える事」に際して、誤解、間違い、勘違い、知識不足は必ず付いて回ります。誰も完璧で誤謬のない考えなどできないと思った方が正しいでしょう。もし、「無矛盾な考え」があるとすれば、それはゲーデルの不完全性定理の如く、「自己の考えの無矛盾性は証明できない」という事になるでしょう。故に、考える事は「独善」から完全に逃れる事が難しい。しかしながら「考える事」は生活のあらゆる場面に及ぶものであり、端的に言えば、箸だろうが茶碗だろうが丼だろうが、その対象となります。まさに「空気を個体に押し固める」ようなものであり「乾いたタオルから一滴の水を絞り出す」ようなものでしょう。だからこそ、楽しいのです。不謹慎ながら「面白い」のだと思います。哲学を「神棚」から降ろして楽しみましょう。ただし、学者にでもなるなら別ですが、あまり眉間に皺を寄せてアプローチすると、ニーチェの最期のようになりますので、くれぐれも、ご用心。

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