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人文・思想 その16「アート(芸術)とは?」


本 広告代理店やデザイン・プロダクションの連中と、若い頃に呑んでいる時、必ずといっていいほど出てくる話題がありました。今でも、そんな議論をやっているのかどうかは分かりませんけど、それは、「アート(芸術)と広告デザインは違うのか?」という話です。私は営業、もしくはプランナーの立場にありましたので、答えはいつも明解です。「そんなの、分かりきってるジャン。クライアント(お得意さん)から金貰ってやるのが広告デザインで、金なんか関係なくて一人でも認めてくれれば成り立つのがアート(芸術)だよ」と、したり顔で答えていました。クリエイターの連中(デザイナー、コピーライター)は、その答えが実も蓋も無いほどに当たり前すぎて納得がいく筈も無く、バトル開始となります。私は議論自体嫌いではありませんが、いつも一緒で、最期には所詮「感情混じりの思い入れ(思い込み)」を各人が乱発する類の議論は、青臭すぎて、正直、辟易とします。

しかし、まあ、若いころは自分も「青い」訳ですから、その答えが、ビジネス偏重の単純な結論(故に事実ではあるのですけど)に過ぎないなどとは思わず、自分の立場から議論に参加します。私の蓮っ葉な答えに対して、高い頻度で出てくるのがフランスの画家、「ロートレック(Lautrec:1864年~1901年)」です。ムーランルージュなど、「ポスターを芸術の域にまで高めた」画家です。若い私は「そりゃ、結果論だよ!」と撥ねつけます。まったく、今はもうそういうエネルギーの無駄遣いのような議論はやりませんが、結果はいつも同じで、「想像の中から生まれるのものは全てアートだ!」というクリエイターの熱い「予定調和的」思いで、とりあえず、疲れて終わります。懐かしいような恥ずかしいような、そんな事をよく酒のつまみにして騒いでいました。
     
しかし、今になってもそのどれもが答えなどとは思っていません。そもそも、「アート(芸術)とは?」なんて、酔っ払いが居酒屋で論じて、結論なんて出る筈もないし。確かに、現代は様々な「デザイン」に満ち溢れ、その中でも広告が占める割合は決して小さくありません。TVコマーシャルもクリエイティブの領域ですが、やはり、平面のグラフィックは「絵画」に通じ、デザイナーの矜持が自らの仕事に「作品性」を強く求めるのは当然かもしれません。古い話で恐縮ですが、デイヴィッド・オグルヴィという名前をご存知の方は、広告代理店に勤めて、そこそこのお歳の方だと思いますが、このオグルヴィ、1999年に亡くなられています。タイム誌より「広告業界で、最も信頼される人物」と評される広告業界の方です。まあ、広告業界の人間はまず、その殆どが「信用、信頼」からは外れたところにいますけど(失礼)。
 
オグルヴィの手がけた広告でとにかく有名なのはハサウェイ(高級紳士用シャツ)でしょう。何故か「黒い眼帯」をしたモデルがシャツのモデルとなっています。当時シャツ業界1位だった企業の広告費が200万ドル、ハサウェイの広告予算は3万ドル。60倍以上もの戦力の差を、オグルヴィはモノともせず、その広告でハサウェイの売り上げを何十倍にも伸ばしたそうです。この「黒い眼帯」は「広告史上、最も偉大なアイディア」と言われていますが、その広告は確かにシュールで一種独特のインパクトを持っています。当然、オグルヴィは芸術家ではなく、クライアントの要望に応えてその広告を考え出し、クライアントの商品を売った訳ですけど、これは単に広告デザインというより、「黒い眼帯」に限りない「ストーリー」を語らせ、見る者もそこに様々にストーリーを思い描くのでしょう。広告である事には間違いないのですが…、そこにはロートレックに近い世界があるようにも思えるのです。
     
そんな事をもはや考える事も無くなった最近、新聞の中で見つけたある言葉がけっこう気持ちよく、昔、考えていた青臭い疑問に答えてくれたように思いました。それは2014年3月26日の朝日新聞夕刊文化欄にありました。引用させてもらいます。「造形物を文脈や意味性から解放し…」。これは、「"イメージの力"展:土俗的、民俗的な造形物や雑貨を扱った展覧会」の主催者が語った言葉です。会場には、まさに土俗的な仮面やトーテムポールと思しきもの、雑多なものが展示されています。文化人類学者の企画だそうで。そこに、美術品として生み出されたものは殆ど無く、展示物に関する説明も無いようです。来場者は、その展示物の「文脈も意味性」も分かりません。単純に考えれば、「戸惑い」を与える「不親切」な展覧会でしょう。しかし、そこにこそ狙いがあるとの事です。先ほどの主催者の言葉はこう続きます。「…生活の中でイメージがどう用いられてきたかを考えてもらえれば。イメージとは、人間の想像力が働いて生まれるものだから」。

記事中にはこのような言葉もありました。「とかく、これはアートか否か、を気にするのが近代芸術の世界」それを「芸術病」とも評しています。確かに、そもそも「アート」の上位には「想像・創造」があり、そこには具体性も何もなく、何かが生まれ出てくる「場」のようなもののように思えます。そして、人がイメージする力(想像力)をエンジンにして、形あるものが生み出されて来ます(創造)。そこに現れた「もの」をどう思うかは、今度は「見る側」に委ねられます。しかも、それは生活者であり、特段の「文脈や意味性」も持たぬ観察者であると思います。あるとすれば「生活している」という事実でしょう。その中で「アート」はどう成立するのか? 

ここで、「文学・評論その13」で書いた、小林秀雄の「鐔(つば:昨年のセンター試験で、難解であると話題となった)」を引用してパロディになろうとも、このように表現してみたくなります。「"作品"の面白さは、"作品"という生地の顔が"芸術"へと向かい始め、やがて、見事に生地を生かして見せるごく僅かの瞬間に"生まれる"。その"成立"が"どうあろうとも"、"芸術"から"作品"へ行く道はない」。小林先生、御容赦。しかし、「アート(芸術)」なるものが、「これから芸術になるから待っててね」って事は無いでしょう。人の「想像力・創造力」から一滴ポタリと絞り出されたものを、眺める者が感じるところに「アート(芸術)」が成り立ち、100年、200年、それ以上の時代を生きて行くのでしょう。

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