テキトー雑学堂 タイトルバナー

人文・思想 その17「仏に逢うてはこれを斬り… 禅の破壊力」


本 「仏に逢うてはこれを斬り…」。何とも凄まじい言葉です。仏だけならまだいいのですが(よくない!)、「神」や「羅漢(悟りを開いた高僧)」や「父母」も対象ですから、まともに聞けば、ただただ物騒な…。この言葉を最初に聞いたのはかなり昔ですけど、千葉真一主演の「柳生一族の陰謀」だったと思います。その中(もしくはテレビでシリーズ化したものだったか…)で冒頭に「裏柳生口伝」として「裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや」という台詞が流れたと思います。ちなみにこの映画で、柳生但馬守宗矩(むねのり:柳生十兵衛の父親)がラストシーンで柳生十兵衛に切られた徳川家光の首を抱いて、「これは夢じゃ、夢じゃ、夢でござる…!」ってセリフ、流行りましたね。この作品、柳生但馬守宗矩役の萬屋錦之介の時代がかった舞台的な演技と、千葉真一やその他の現代劇演技とが妙にチグハグで面白かった記憶があります。

で、話を元に戻しますが、「裏柳生口伝」の言葉のもとは禅宗の教えの中にあるようです。「禅」といえば仏教の一派ではないですか。その仏教の一派が「仏に逢うてはこれを斬り…」とは…。私も最初はその「仏に逢うては…」の言葉はまったくの創作だと思っていたのですけど、文脈をたどって行くと、その言葉の元が禅宗の臨済宗「臨済録」へと行き着きました。「臨済録」が初めて英訳されて世界に紹介されたとき、その「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」という内容を見て、西欧のクリスチャンたちは「禅はなんと恐ろしい宗教か」と眉を顰めたらしいですけど、そりゃ無理もないですよね。それで、ヨーロッパのある国では「禅」を今でもカルトに分類しているのでしょう。
    
禅宗を大まかに説明すれば、大乗仏教の一派で、そうなると「衆生救済」の思想を持っているのでしょうか? そうは思えないような…。は、置いといて、インド出身の達磨(あのダルマさんの元です)が中国へ伝えたとされていますが、中国での禅は明の時代には衰退したようです。日本へは鎌倉時代に伝えられたそうです。その教えと修行法が当時の武士階級のストイックな生き方にマッチしたのか、室町幕府では庇護さえされます。今では「禅=日本」のようなイメージではないでしょうか。ちなみに「禅」とは梵語の発音が中国で「禅」「禅定(ぜんじょう)」「禅那(ぜんな)」となったもので、座って行う「瞑想」の事といって間違いないでしょう。余談ですが、「禅定」とは「禅に専念している状態」で「禅那」は「禅で至る境地」と訳せば分かりやすいと思います。これは多分、お釈迦様の「止観(しかん)」が原型と思いますが「静かに瞑想する」という意味で間違いないと思います。本当は一字一字にややこしい意味がありますが、宗教学者を目指す訳ではありませんので、一般的にはこのような理解でよろしいかと思います。で、その禅宗には宗派、更にその派のようなものに分かれて、これまたややこしいのですが、よく知られているのは栄西を宗祖とする「臨済宗」、道元を宗祖とする「曹洞宗」でしょう。「黄檗宗」がそれに次いで、よく知られていると思います。
     
本テーマの「仏に逢うては…」は臨済宗の「臨済録」にある言葉ですから、そこにスポットを当てます。が、その前に、「禅」は、そのままの言葉で理解しては訳が分からなくなるという前提を置かなければなりません。よく「訳の分からない話」を「禅問答」といいますから。禅の考えのひとつに「不立文字(ふりゅうもんじ)」というものがあります。これは「経典の言葉から離れて…」という事ですから、釈迦の言葉を借りぬ、という事になります。「では、仏教じゃないじゃないか」って言われそうですが、「禅」が目指すのは、「瞑想」によって、釈迦の境地に達しようという事です。ここの所はかなり大雑把に言ってしまった方が分かりやすいと思います。修行のひとつとして、まさに「禅問答」といわれる所以の、「公案(こうあん)」があります。これは禅の修行僧が悟りを開くための「問題」です。

有名なもののひとつに「隻手の声(せきしゅのこえ)」というものがあります。これは「片手で手を叩いた時の音とは」というもので、両手で手を叩けばパンと音がしますけど、では「片手では?」という公案です。これは好きにお考えください。皆様が修行僧でない限り「宿題」ではないですから。禅にはこのような公案がゴロゴロとあります。「無理会話(むりえわ)」ともいわれるそうです。簡単に私的な説明をすれば「その殆どは先入観を捨てなければ、そこで堂々巡りを起こす質問」で、片手で手を叩くというのは…、で悩んでいるとその先には考えが進みません。そこをブレークスルーして、そのような状態の事を考える。これが「公案」です。ですから、最初の「言葉」に戸惑ってはいけないのです。
    
「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」といった「臨済録」の言葉をそのままに理解して実践すれば、人類は滅んでしまいます。この言葉、色々な作品で色々に使われているようです。「神に逢うては神を殺し…」「親に逢うては親を殺し…」「鬼に逢うては鬼を殺し…」とか。もう一度言いますが、それをそのままの意味で聞いてしまえば、身も蓋も無い事になります。不謹慎な言い方ですけど、「捻って」みましょう。例えば、「仏に逢うては仏を殺し…」を「仏を殺して仏に逢う」としてみたらどうでしょうか。仏とは「至上の存在」です。つまり、誰も「疑わない」対象です。それを「疑ってみたら…」、どうでしょうか。そして、その先に何かが見えてきたとしたら…。もちろん、見えるかどうかは分かりません。ちなみに、禅宗の修行僧はこの公案をいくつか解かなければ禅僧にはなれないそうです。受験のようなものですが、答えがあるのかな…? 禅僧になれる人となれない人は多分、真っ二つに分かれると思います。なれない人は、永遠になれない…。

これまた私見での解釈ですが、この公案とは、徹底した「二元論(良し悪し等)」の排除、と映ります。そして、その中で「全てを受け入れ」、その上で行う「思考実験」であると考えます。自分を煩悩の上に留めているあらゆる「常識」を全て疑ってみた時、その先に何かが見えてくる…。故に禅は「不立文字」として前提となるものを排除し、そして「只管打座」の中で「瞑想」する修行法を取るのでしょう。それは「自分との対峙」であり「仏性との対峙」であると考えます。なんか、妙に真面目な文章となってしまいましたが、それは「仏や神と五分で渡り合う」という事ではないでしょうか。

キリスト教にはこのような考えは存在しません。「神である主」は揺らぐことのない絶対的存在だからです。故に、外国人の知識層が「禅:ZEN」に興味を持つのでしょう。余談中の余談ですが、冒頭の「裏柳生口伝」は、「真剣勝負でのためらい」を諌めている言葉です。互いに真剣で戦えば、コンマ数秒の差が生死という残酷な差になります。実際、柳生新陰流は「最強の剣術」といわれ、その奥義に「水月(すいげつ)」というのがあったように記憶しています。これは「自分は切られないけど、相手を一太刀で斃す間合い」だそうですが、神業ですね。で、「仏に逢うては仏を殺し…」という物騒な言葉から「禅」へ辿り着きましたが、改めて「禅宗」というものを眺めてみると、「破壊力抜群」の最強の「宗教」のように見えます。が、もし、日本人全員が「禅宗」になったらどうなるんでしょう? 不謹慎ながら、「凄い発想の持ち主だらけの国」になるのか、「話のかみ合わない国民ばかりの国」になるのか…。

人文・思想 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.