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人文・思想 その18「夢占い 夢判断 夢は夢 科学の領域か?」


本 最初に個人的なスタンスを明確にしておきますが、私は「夢」というものを徒に「科学の領域」に引きずり出すのには抵抗があります。何故ならば、科学的探究心、好奇心の対象として極めて魅力的であるのは理解できますが、人が見る夢に、何らかの「意味性」を持たせようとすれば、それが恣意的な解釈になる事を避けられないと思っているからです。「夢は夢」。それはその個人だけのものでよいと考えています。「何であんな夢を見たんだろう…」「あの夢の意味は…」と、個人が考えることは、時にそれが芸術の域にまで高められたり、その夢を考えることで人の想像力が高められるとすれば、それは大いに結構な事だと思います。しかし、それがいったん「科学の領域」で何某かの解釈を与えられれば、例えば医者と患者の関係で語るなら、それは一方的に「病名」を付けるのに等しい行為となるのではないでしょうか。あくまでも「夢」は個人のものです。

そもそも、「心理療法なるもの」は、精神分析学による「無意識の発見」から始まったといっても過言ではないと思います。20世紀の天才の一人に挙げられるジークムント・フロイトの大きな功績であり、それまで加持祈祷の類など、妖しげな治療法の対象であった「心の病」を「治療可能な医術の対象」としたのは彼です。正確には、ブロイアーなど、数々の学者たちの研究を束ね上げたというべきでしょうか。いずれにせよ、その心理療法の基本を極力簡単にいえば「その症状を引き起こしている原因を本人が明確に認識できれば治癒に至る」ということでしょう。その辺りのことは本サイト「人文・思想その2」で書きましたのでよろしければ。で、その「好ましくない症状を引き起こしている原因」はどこにあるのでしょうか? それは「無意識」と呼ばれる「識閾下(しきいきか)」にあります。「識閾」とは意識と無意識との間の事で、意識できない(しない)領域にある「意識」(ややこしい?)です。「無意識」といっても、よく「意識が無い」という「昏倒(こんとう)」状態の失神や気絶なども「無意識」状態といいますが、ここでの使われ方とは意味が違い、「意識に上がってこない意識」のことです(余計にややこしい?)。

大ナタを振るって簡単にいえば「意識に上がるとまずい記憶や感情」が、脳の働きによって「抑制」されて、閉じ込められているといったところでしょうか。脳の働きである「意識」は、自分を守るために「都合の悪いもの」を「識閾下」に閉じ込めます。「忘れる」といった「能力」のようなものです。人の脳が持っている主要な自己防衛機制のひとつである「抑圧」です。余談ですが、フロイトはその抑圧の原因に「性的」なものを中心に据え(過ぎ)ています。これはキリスト教世界の倫理観によるものでしょう。夢に現れる「剣、蛇、銃、穴」などを男性器や女性器として捉えます。これによってフロイトは、その晩年に少々非難を浴びています。
    
つまり、人が「心を病んでしまう」のは、人の意識(=脳)が持っている「自己防衛機制」が正常に働かず、都合の悪い「心を苛むもの、思い出したくないもの」を上手く識閾下に収めきれていない、と考えても間違いではないと思います。ちなみに、最近では「心理」よりも「大脳生理学」的なアプローチで「心の病」の治療を施す事が中心で、その殆どが「薬物療法」です。「心理」よりも「ドーパミン(神経伝達物質)」で、これは個人的な思いですが、どうも医者やカウンセラーの「会話力・問診力」が低くなっているように感じます。「では、お薬を」ってなのが多すぎるような…。

話を元に戻します。本編は「夢」の話です。私はこの「夢」こそ、睡眠という「人の意識が弱まった時に識閾下から湧き上がってくる不都合な意識」であると思っています。不都合といっても、それは倫理的なものである場合「不届きな意識」であれば、実はとっても楽しい夢になるかもしれません。現実にはあり得ない事など。いきなり大金持ちになったり、モテまくったり、超能力で無敵の存在になったり…。で、あり得ない事だから、そんな事に意識が向かないよう、脳がその「欲」を識閾下に仕舞っておくと考えられます。「私は神だ」なんて覚醒時に本気で思ったとしたら、日常生活に支障をきたすでしょう(ちょっと、例は悪いけど)。しかし、夢で見る事にはそれほどの実害はないでしょう。目が覚めれば記憶という意識にはしばらく残っていても、いずれ「忘れます」。
     
精神分析学の大御所、フロイトもユングも「夢が無意識の産物」である事では一致していますが、その分析の方法が異なり、二人が袂を分かつ事になります。フロイトは、その夢に対して「自由連想法」という覚醒時の意識による「心に浮かぶものをそのままに連想していく」という手法を加えたため、ユングから見れば「夢という無意識の対象から、どんどん外れていく」という事で、ユングはフロイトの手法を批判しています。ユングは無意識そのものの中に「普遍性」を認め、「集合的無意識」という考えを持っています。簡単にいってしまえば「神話世界」や「元型(人の心にある共通のパターン)」を人々が無意識世界の中で共有しているという事です(「元型」については説明だけで相当な文字数が必要になりますので、別の機会で改めて書いてみたいと思います)。話を端折るようですけど、要するに、フロイトは「夢」を精神分析のキッカケとして位置づけ、ユングはむしろ夢そのものに何らかの意味、つまり「治癒、リセット」しようとする機能があると考えたようです。つまり、ユングは夢を正確に分析し、それが「自己に対するメッセージ」であり、「正しい方向に導こうとしている」ことを突き止め、治療に結び付けようとしていたと考えて間違いないと思います。この辺りには当然、異論、反論がある筈ですが、ユングの考えそのものが「難解」であるため、多面的に理解しようとすれば混乱します。まずはシンプルに捉えようと思うのですが、私はユングの考えに賛成です。
    
夢は「夢占い」としてなら実害も何もないのですけど、「精神療法」の対象として捉える事にはかなりの違和感を覚えます。実際、夢見が悪いといって「精神疾患」へとつながる例は殆どないのでは? 私の知る限り、そのような事例はありません。これは個人的な仮説ですが「夢とは、識閾下にちゃんと納められなかった不都合なものを一度意識の上に上げて、そして、識閾下へ納め直す」リセット作業だと考えます。要するに、人に自然に備わった力ですから、放っておいて構わない、という事です。夢は夢。夜見るのも「夢」なら、自らの将来を良かれと願い思うのも「夢」です。これは「科学の領域」とは馴染まないものではないでしょうか。何故、人は夢を見るのか? それは「必要」だからと考えるのが自然でしょう。話が脱線するかもしれませんが、江戸川乱歩の言葉に「うつし世(現世)は夢 夜の夢こそまこと」という表現がありますが、これって捉えようによっては「うつし世も夢も、どっちでもいい事」とも考えられます。

まあ、個人的には「夢占い」も、「何だかなぁ…」と思うのですが、これは趣味的なものでしょうからどうのこうのは無いにしても、どうあろうと、下手に「夢」を弄ぶ事は、ろくなことにつながらないと考えます。人の脳はズッと「起きている」訳で、活動しています。それが活動を止める時、人はもう「夢」を見なく(見られなく)なるのです。それまでは「夢」を楽しみましょう。朝起きて「あー、変な夢を見た…」と言った時、寝ている間に脳がシッカリ働いてくれていると思いましょう。で、元気に一日過ごせば良いのです。「夢」の供給である「識閾下」って、覗いて見たいですか? 私はイヤです。何が入っているのやら…。

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