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人文・思想 その25「人には何故、宗教が必要なのか…」


本 かなりストレートなタイトルですけど、素朴にいつも思う事です。昨今の出来事をニュースで見ても、本当に「宗教なるもの」の意味が分からなくなりそうになるので、一度、原点に返って考えてみたくなりました。一般的に宗教と云えば世界三大宗教というものが頭に浮かんできます。世界の人口比でいえば、「キリスト教」が約30%、「イスラム教」が約20%、「仏教」が約6%ですが、「ヒンドゥー教」は約14%です。ヒンドゥー教の多さはインドの人口によるものでしょう。キリスト教、イスラム教、仏教が世界三大宗教であり、人種や文化圏の枠を超えて広まっているため、「世界宗教」とも呼ばれます。しかし、それぞれの宗教が「一枚岩」かといえば、どれも様々な宗派に分かれています。これに現代の「新興宗教」を加えたら、一体、どれほどの宗教が存在するのでしょうか。

で、一応「宗教」なるものの定義を押さえておきます。ここはいつもの新解さん(国語辞典)で見てみると「人間を超えた絶対的なもの、たとえば神や仏などを信仰することによって、慰め・安心・幸福を得ようとすること。また、そのための教え」とあります。新解さんにしてはキレが悪いですね。無難というか…。それに「たとえば神や仏」って、それが無かったら宗教ってどんな形になるの? WEBですから、Wikipediaも押さえておくと「一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである」とあります。え…? 社会集団のこと…。これも何か、キレのない表現ですね。出だしは新解さんとほぼ同じですけど、後の表現だと「教団」「宗教法人」の説明です。とはいえ、確かに「宗教」というものが「目に見える形」となるのは「教義、儀礼、施設、組織」であるのは事実です。実際、宗教法人となる事によって具体的な「宗教活動」が実践できる訳で、そのために必要なものが法律で定められていて、日本の場合は「教義・儀式・礼拝の施設」が条件になっているようです。要は、一般の企業なんかの設立とあまり変わらないみたいですね。
     
私は、「人間に何故宗教なるものが必要なのか?」と問われれば「死を発見してしまった人間の知性が、その恐怖に対抗するために生み出した命の在り方、在り処の思想体系」と答えます。そして、それを教えるものが「神、仏」と表現される、まさに「人間を超えた絶対的なもの」です。そうであれば、宗教というものは「どのような形でも成立し得る」ものである筈です。そして、古代的な「ただただ畏れる存在である自然への崇拝(神格化)」である原始宗教を「人の手に取り戻す」キッカケを作ったのが、キリスト、マホメッド、釈迦という人物だったと考えます。キリストは「愛」を説き、マホメッドは「助け合い・相互扶助」を説き、釈迦は「智慧」を説いて、人の命の「在り方、在り処」を体系化したと思っています。それらは全て「人を死への恐怖から解放し、その命の意味、価値を教えようとする」もので、それが宗教であると、私自身は言い切れます。ですから、そこには確かに「教義」は必要となりますが、果たして「儀式」と「礼拝の施設」は必要なのでしょうか? 人それぞれがその教義に従って、「自らの命の在り方と在り処」を敬虔に思い至るということだけではダメなのでしょうか?

個人的には大いに疑問を感じるところです。教会やモスクや寺があって、そこで「祈る」という形式を持たなければ「宗教」は成立しないのでしょうか? 「祈る」という行為は個人でも成立します。これに関しては、日本の法然がいう「人は、一人だけでは自らを救えない」として、「人を救う絶対他者(=阿弥陀仏)」への「祈り」である「南無阿弥陀仏」なる念仏を唱え、ひたすら仏に帰依するという姿が、私にとっては一番理解できる「宗教の姿」です。思想家であり宗教哲学者でもある柳宗悦(やなぎむねよし)の著書「南無阿弥陀仏」に、「手を合わせて祈る時、人は宗教的な存在になる」との言葉があります。そう思います。「祈る」事こそが宗教の根幹であると考えます。
    
ちなみに、「無宗教」である者は世界の人口比で約13%存在します。この方たちは「祈る」事も無いのでしょうか。いいえ、そうは思いません。「無宗教」とは、「特に名のある神を対象としない」事だと思います。もちろん、コンコンチキの唯物論者の方もいるでしょうが、「祈り」とは、決してその「対象」を必要とするものではないと考えます。自らの思いにより、その「善き存在」「弱き存在」として「祈り」の情動を発動させるのであると思います。その時、その「祈る人」には対象となる「神、仏の名前」は必ずしも必要ありません。「人を超えた存在」に思いを通じさせようとするのです。「善くあれ、助けてください、守ってください」等々、様々な思いを泛べて祈る姿こそが「極めて宗教的な姿」であり、自らの「命」を感じる事が出来る瞬間であると思います。それこそが「宗教」であり、何々教などと名乗る必要もありません。宗教関係の方にはどう思われるか知れませんが、「一人一人にそれぞれの神、仏がその身の内にいる」、です。個人的な事で恐縮です、私は特定の宗教に属する者ではありませんが、自分を「極めて信心深い」と思っています。

何の本で読んだかは忘れましたが、最先端の科学領域である「量子論」「宇宙論」の学者たちがその考えを突き詰めていく中で、「神の存在を感じる」という者が90%に及ぶとか…。これは素直に「腑に落ちる」事です。ミクロであれマクロであれ、この世の姿を探究する時、その果てに「人を超えた絶対的な存在」を感じざるを得ないのでしょう。神や仏は「観念」のみ(実体がなくとも)でも存在します。「祈る時」、その身の内に確たる「命」を感じ、それこそが「絶対的な存在」とシンクロする姿であり、外に姿を現さなくとも内で同化できるもの、そして、ひとの「命」が全てを受け入れている状態だと考えます。それが「宗教」であると思いますので、「だから、人それぞれの命にとって、宗教は必要である」と思わざるを得ないのです。ただ、それがあまりにも「外」に形を持ちすぎて、時には「人の命」を奪ってしまう「宗教とやら」があるので、宗教がややこしくなっているのは事実でしょう。「人の命」を奪う宗教などある筈がない、です。宗教とは「生命哲学」。故に、「考える事が出来る生命」にとって「宗教」は絶対必要。

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