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人文・思想 その26「柳宗悦 白樺派から民芸へ そして南無阿弥陀仏」


本 柳宗悦(やなぎむねよし)の名は、一般的な有識者に対する敬意より(基準は特にないようですが)「そうえつ」とも音読表記され、欧文でも "Soetsu" と表記されるようです。私は長く思い込みで「やなぎそうえつ」と呼んでいました。それはさて置き、彼は1889年、海軍少将の子として生まれ、旧制学習院高等科を経て東京帝國大学へとすすんだ、当時としては相当なエリートでしょう。余談ながら、あの嘉納治五郎は叔父にあたるそうです。彼を白樺派の一員として考えれば「文学」のジャンルで語るべきなのでしょうが、私にはどうにも柳宗悦はそのジャンルには入ってこない、思想家として捉えられます。実際、彼の本を読むまで、白樺派の一員であるとは恥ずかしながら知りませんでした。ちなみに、私は「白樺派」はあまり好みません。志賀直哉や有島武郎、武者小路実篤などは一通り読みましたが、正直、どうにも好きになれず、武者小路の「真理先生(しんり先生です。まり先生ではありません)」などを読んだ後には何やら地に足がつかない読後感を覚えたものです。といって、殊更嫌っているということでは決してないのですが…。

これは一般に言われていることなので、それゆえに白樺派をどうのこうのと思うわけではないのですが、その作風は端正であるとは思いつつも、どうも「ドロッ」としたものがなく、清涼飲料水のような感じで、私にはあまり向かない作風だといまだに思っています。それが「学習院」のお坊ちゃまたちだからと云えば、自分の軽薄さを晒すようで気が引けますし、そもそもが「品性」に欠ける性格だからと云えば自嘲的だし…。要は、好き好きという好みの問題ということでしょう。その中に在って、柳宗悦という人物は「何であなたが白樺派?」と云いたくなるような存在で、確かに、白樺派の作家たちが記念撮影をしている写真の中に映ってはいるのですが、自分にとっては「設立に参加しただけ」という認識です。ってなことも無いのでしょうが、彼を白樺派というのはかなり違和感がありますし、一般にも「白樺派の作家」と思われてはいないんじゃないでしょうか(多分)。

私の中では、岡倉天心や柳田國男と同じようなイメージです。三者に共通するのは、日本の古い伝統の中にある「美」もしくは「思想」を、「美術」「民俗」「民芸」の中から見つけ出し、それを世間に広く知らしめ、独自の世界を歴史の中に残したという点です。その果実は、岡倉天心は「茶の本」、柳田国男は「遠野物語」の中にあり、柳宗悦の場合は彼が初代館長を務めた「日本民芸館」に結実していると考えます。「民芸」と云えば、旅先の土産物屋に並んでいる品々を思い浮かべそうですが、本来的には「民衆的工芸」の略であり、極めて日常的に一般庶民の生活の中にあるもの(日用品)に「美」を見出すという、柳宗悦の「思想」「運動」により今日まで伝えられ、守られてきた「伝統美」であると考えます。正直、その辺りに私自身、それほど造詣が深い訳ではないのですが、明治維新以後に、下手をすれば西洋化の中で衰退したかもしれない愚から、「日本の民芸(朝鮮、琉球も含まれます)」に光を当て続けてきた存在として、柳宗悦がいます。

伝統的な「手仕事」で作られる「民衆的工芸品」は現在のデザイン界にも大きな影響を与え続け、時にはブームとさえなっています。それらは鑑賞するための「美」ではなく、日常的な「使用価値」の中に生まれる「美」を見出した柳宗悦の精神が連綿とつながってきたものでしょう。ところで、私自身が柳宗悦に大いなる共感を覚えたのは、その著書「南無阿弥陀仏」にあります。書店でそのタイトルを背表紙で見つけた時、その著者名が柳宗悦とあるのに、少しばかり驚きました。私は経の類はみなその「音」に意味があり、表意文字で描かれた「経」は、中国という大文化圏のフィルターを通り、その殆どは「観念的」なものとなり、肝心の「音(サンスクリット語)」が失われていると思っています。故に念仏の「南無阿弥陀仏」も、お題目の「南無妙法蓮華経」も、その「南無」は "namo" の音を当てたもの(ナモーですがナーモとも聞こえる)で、「礼拝、挨拶」等の意味が「帰依」という意味に転じているだけで、その後の「阿弥陀仏」などはもともとの音からかなり遠ざかっていて、果たして「唱える意味があるのか?」と思っていたので、そのものズバリをタイトルに上げたその本に大変興味を覚えました。

この「南無阿弥陀仏」の本は今でも私の書棚の奥にあります。実はこの本、10ページ辺りまで読んで、そのまま長くその後のページを読んでいません。「面白くなかったの?」と言われそうですですが、全くその逆です。10ページ位まで読んだ時に、長らく持っていた疑問が解けたからです。柳宗悦がこの本で著したのは「南無阿弥陀仏」の解説などではなく、それがたとえどんな言葉であろうとも、そこに「仏」なるものに対して「祈る」真摯な人の姿こそが「優れて宗教的な存在」を現したものであるという思想でした。

もう、私にはそれで十分でした。法然、親鸞、そして一遍による浄土の思想よりも、その柳宗悦の「人が一心に祈る姿にこそ、南無阿弥陀仏の精神がある」という言葉に対して素直に共感を覚えました。まさにその通りで、宗教とは決して日常を離れたところに鎮座するものではなく、まさに日常そのもの。「祈る姿」とは、彼が言う所の「民芸」と深くつながっているのでしょう。生活から離れたものには、「本来的な遊び(たおやかさ)」が無く、息苦しいものとなりやすい。その時、(好き嫌いは別にして)「白樺派」の作風と「民芸の精神」、そして「日常に息づく南無阿弥陀仏」が一本の線で見事につながったような気がしました。「祈る姿」とは、まさに人と仏が一体となる瞬間であり、それは評論など入り込む余地のない、善や悪なども受付けない自然な「人の在り方」なのでしょう。

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