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人文・思想 その28「ニーチェ 無礼ご容赦 その存在を単純化してみたい」


本 ニーチェ(1844年~1900年)。その名を聞く時、私には彼のイメージとして確固たるものが浮かんできません。その逸話を拾っていっても、なかなかにニーチェという存在が像を結びません。もちろん、これは極めて個人的なことなのですが。ニーチェを専門的に学んだことはありません。特にその哲学に傾倒している訳でもありません。しかし、落ち着かないのです。どのようにその存在を語ればいいのかという事が浮かんでこないのです。「ニーチェとは…」の後が続かないのです。というより、様々な表現を用いてもどれもそうであるような、そうでないような…。で、この際、このニーチェという存在を「無礼ご容赦」で、極力単純化してみる事にこの雑学脳でトライしてみたいと思います。学者の方々の真摯な研究から抽出されるニーチェとは違う捉え方をするかもしれません。いえ、多分すると思います。解釈の間違い等、満載状態になるかも知れません。しかし、どうにもこのニーチェについて考える時、落ち着かないのでここで私なりにかたをつけたいのです。

とりあえず、という事でもないのですが、ニーチェに関して最初に興味を持ったのは、あの有名な「神は死んだ」という言葉からです。日本人である私にとって「神」とは「天の主」の事に思えますが、それが「死んだ」と言われても特段の衝撃は正直言って、ありません。しかし、彼の国、地域の人たちにはどれほどの衝撃的な言葉であったかは想像に難くありません。ちなみに、余談かもしれませんが、仏教において「仏」は死にます。滅するといえばいいのでしょうか。阿弥陀如来は56億7千万年後に弥勒菩薩と交代して、以後は弥勒如来が衆生(しゅじょう:全ての命あるもの)を救済するとされています。今現在は、そのための修行中ですから弥勒菩薩です。「仏」にも寿命があるのです。しかし、それとニーチェの言った「神は死んだ」とは全く意味が違うものです。ニーチェがその言葉を記述したのは、あの「ツァラトゥストラはかく語りき」です。そういえば、筒井康隆の短編に「火星のツァラトゥストラ」ってのがありましたね。

「神は死んだ」。この言葉を額面通りに受け取れば、キリスト教成立以来、初めての大暴言とも取れます。もう数世紀前なら、宗教裁判で火あぶりでしょう。しかし、この当時(19世紀後期)、ヨーロッパは資本主義の台頭による退廃ムードの中で、教会権力もそれほど強いものではなかったでしょう。むしろ、この言葉はその後の資本主義が発達していく中で、ポジティブに捉えられ、個人主義、自由主義へとつながり、現在に至っていると思います。元はドイツ語でしょうが、この部分の英語訳がWikipediaにありましたので、その一節を引用させてもらいます。

God is dead. God remains dead.
And we have killed him.
Yet his shadow still looms.
How shall we comfort ourselves, the murderers of all murderers?

2行目の "And we have killed him." がこの言葉の "God is dead. " よりも重要な意味を持つのではないでしょうか。それ以後の表現を見ても、ここで言われているのは「神は死んだ」というよりも「我々は自らの手で神を失った」という解釈の方が腑に落ちます。

ニーチェを知ろうとするなら「永劫回帰(世界の円環的構造:無限の時間)」「超人(自らの確たる意志で行動する人)」「古代ギリシャへの憧憬」「ワーグナーへの心酔と幻滅」などなど、様々な言葉&出来事を組み合わせて考えなければならないのでしょうが、その根本にあるのは「あるがままの自己と対峙し、冗長な日常の中でそれに紛れる事無く、自己の意志によって生きる」という簡潔な思いではないでしょうか。それは彼の次のような言葉にも表れていると感じます。「世界には、きみ以外には、誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め」。なんだか、近所のオヤジが青年にポジティブな説教をしているように思えるシンプルな言葉です。こうした考えはむしろ、西洋的な絶対権威の世界ではなく、東洋的な、あえて誤解を恐れずに言えば「神仙的な世界観」であるように思えます。無為の世界に遊ぶ荘子に似ているような気がします。まあ、荘子ほどフワッとした感じではないのですが。

ニーチェは、道徳や宗教などの既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せん、といった思いでワーグナーに心酔するのですが、『ニーベルングの指環』に幻滅してしまうというのは、取って付けた話のように思えるのですけど、要はそこに見えた「俗」に対して気が滅入ったのではないでしょうか。まあ、それは「君は違うと思っていたのに…」とかいった、われわれでも日常で感じるようなものですから、特にニーチェを語る逸話としては特段の事でもないように思えます。

ニーチェは、裕福な家庭に生まれ、恵まれた教育環境のなかで育ちましたが、博士号も教員としての資格も持っていない「在野の哲学者」です。しかしその強烈な哲学者としての存在の根源はやはり「ツァラトゥストラはかく語りき(この作品自体はあまり良い出来ではないと思うのですが…)」の中の「神は死んだ」の一節に求める事が出来るように思います。つまり「もはや神には頼れない」、そうした「神を殺した近代」という時代を迎える中で、やや予定調和的ながら、人間の在り方を模索し続けた一人の哲学者。その目に映っていた理想の世界は、東洋的な「桃源郷」でしょうか? それともやはり「古代ギリシャの世界」でしょうか? 私は「桃源郷」のような「異次元」に存在する世界であったと思います。その理由は、晩年に精神を病んだ時の彼の言葉です。「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。(以後略)」。ニーチェとは、(パラダイムの一斉変換が求められる)時代の狭間に必然的に生まれた「リンク」であったと思います。本人の意思に関わらず。

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