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人文・思想 その36「哲学を一言でいうなら 人の精神に連続性を持たせる力」


本 「哲学」なる言葉に明確な定義があるのでしょうか。愛用の新解さん(国語辞典)で見てみます。哲学とは「人生の根本問題をもっぱら理性により突き止めようとする学問」、「自分自身の経験から築き上げた人生観(世界観)」。なにやら、新解さんの本領である斜めからの切込みがない、無難なことが書かれています。まあ、それほどこの「哲学」なる言葉を表現するのはややこしいのでしょう。心理学などと同じように、この哲学には様々な言葉が頭に乗っかることがあります。社会哲学、政治哲学、宗教哲学、歴史哲学、法哲学、教育哲学等々…。ちなみに、心理学に同じような言葉を乗っけても成立します。人類学もそうかな…。まあ、とにかく各方面で哲学哲学と言われていますが、これだけ風呂敷が広くなると、果たして「人生の根本問題」とか「理性」とか「人生観」などという言葉で、もはや括りきれるものではないでしょう。

「じゃあ、どうするんだよ。評論だけかよ」ってな突っ込みが聞こえてきそうなので、ここはいつも通り「無い知恵絞り」「開き直り」「破綻上等」で行きます。私は、哲学の本質を何とか一言で表そうとすれば「人間の精神に連続性を持たせる力」であると考えます。もちろん「力」ですから、先天的なものが多少あったとしても、それは時間をかけ、機会を得てのトレーニングが必要なものだと思います。「直観・経験則」も多少必要でしょうけど、偏る可能性が大であり、まさに学習と同じようにいささかしんどい「訓練」的なものは免れないでしょう。で、それを鍛える方法論はさて置いて、それによって得た「人間の精神に連続性を持たせる力」とはいったいどういうものであるのか、ですが、まず簡単な説明としては、人が「個人」として持っている「考え」と、「社会人」として持っている「考え」との「連続性」を得ることでしょう。これは兄弟サイトの「不思議・怖い・変を普通に考える:不思議その61」でも書きましたが、この「個人」と「社会人」とは同一の個体の中に在って利害を異にします。そして、時に「二重人格化」します。

つまり、簡単な例としては「社会問題である少子化問題のためには認可保育園を早急に整備しなければならない」と「社会人」としては考えますが、おうちのリビングにいる「個人」は、「家の近くに保育園ができると、うるさいし、調理の臭いが出そうだし、送迎の車で危ないし、それに我が家の資産価値が下がりそうだし…」と、全く違う考えを持ちます。これは新聞報道を見るまでもなく、事実です。また、例えば、某新聞のコラムで見かけたことですが、あの非人道的で悲惨極まりない「ガス大量殺人」を企てたナチスの指導者たちは、モーツァルトの音楽に涙を浮かべて聞き入ったり、カントの道徳論を愛読していたそうです。そこでは、「個人の情緒、知性、理性」と「社会人としての現実の行動」が全く乖離して、まさに「二重人格」のごとき様相を呈していると言わざるを得ません。余談ですが、イデオロギーと宗教にはそういう側面があるので、恐い…。

ゆえに、そこには哲学による「人間の精神に連続性を持たせる力」、すなわち「個人」と「社会人」としての精神に「整合性」を成立させることが重要となってくると考えます。実際に、われわれの精神は「一貫性」を持っているでしょうか? 朝起きてテレビでニュースやドラマを見て、会社に向かう電車の中でその日の仕事のことや、週末のレジャーのことを考えたり、会社に着けば、会社の価値観に染まってしまい、アフターファイブには残業か酒席で楽しい話から愚痴まで、時には支離滅裂に話があちこちに飛んでいくこともあります(まあ、タイ焼きの型のような私の一日と言ってもいいです)。もっとも、そこに焼き鳥のようにグッサリと串を通すというのもなかなかに難儀なものですが、改めて一貫性というものがあるかと言えば「その時々に…」ってな感じで、「一貫性」といっても…。

それとは違って、例えば、社会の中の「経済」というものを、「経済」中心に社会を眺め、行動するとしたら「一貫性」というものは成立するのでしょうか? それはある意味で「哲学」的な顔はしていますが、身も蓋もない言い方をすれば「すべてのものを貨幣価値で測る」「何事も利益を動機として動く」ということになりますから、そもそもが「哲学」としての「理性、知性」などとは無縁の機械的なものです(頭使っていない)。「お金を稼ぐ者が優秀である」ということが哲学になってしまったら、おそらくこの社会は寒々とした光景になるでしょう(現実がそうかも)。この場合は、「一貫性」があったとしても、そのコア、つまり「哲学」として成立させるべき「精神」自体が哀れなほどに痩せっぽちで「善・悪」という概念さえも内在しないものとなり、全く「哲学が…」という話の俎上にも上がりません。

では、改めて「人間の精神に連続性を持たせる力」とは…。これは、この編の前の「その35:ハンナ・アーレント」でも書きましたが、「思考の停止を起こすことなく、そのコアには我慢を厭わぬ他者への優しさを持つこと」であると、私は言い切りたい。いきなり「優しさ」なんて言葉が出てきて、「なんだ、そりゃ」と突っ込まれると思いますが、ここに「哲学」のコアがあると考えます。つまり、これがないと「相互依存」である社会がまず成り立たなくなるのです。人が社会的動物であり、何人と言えどもその社会の中に拠って立つ存在であることは説明の必要もないでしょう。「優しさ」という表現で分かりにくければ「他者へ共感する力」「人の心を忖度・斟酌する力」と言えばよいでしょうか。

「自分の哲学」などと言えば聞こえはいいのですが、もう一歩進めて「社会とともにある自分としての哲学」とすれば、多くの独善からは逃れることができると思います。まあ、もっとも、すべての人に「聖人君子」になれというような言い方に聞こえたならば、私の言葉足らずということになるでしょうけど…。つまりは、人に社会という関係性がなければ「哲学」なんてものも生まれなかったし、その社会と個人との「連続性」というところに哲学の「あるべき姿」を感じる、ということです。あまりに「経済的人間」が増えすぎて(類型化)、人が本来持っている「(社会的)想像(創造)力」が疲弊しきっているのではないか。ってなことを強く感じ、こんなことを書いてみました。哲学哲学という言葉をけっこう目にしますが、それは哲学がない証拠。ねえ。

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