テキトー雑学堂 タイトルバナー

人文・思想 その37「阿闍世コンプレックスと甘え 日本人の深層… 古澤平作と土井健郎」


本 過日、調べ物をしていたら「阿闍世(あじゃせ)コンプレックス」なる言葉を目にして、思わず「懐かしさ」のようなものを覚えました。で、この「阿闍世コンプレックス」なるものは何なのか? ってことなのですが、これが一言ではなかなか説明がつかないのですよ。この辺りを本格的に語ろうとすれば本が一冊書けますから。てなことを言っていては本サイトの記事にならないので、できうる限り「分かりやすく」ということに挑戦してみます。遥か学生時代の昔に学んだことですので、その記憶を引っ張り出しながら考えてみますので、勘違い、思い違いはご容赦。

で、まずは「阿闍世」なる者ですが、サンスクリット語では「アジャータシャトル」と表記(サンスクリット語はPCで無理)し、仏教でいうところの「業」、キリスト教でいうところの「原罪」とでも言えばいいのか、「生まれる以前から、母親に恨みを抱く」との意があるそうです。ある程度心理学をやっている方でしたら、ここで「ん…?」となるかもしれません。どこがと言えば「母親」という部分です。ジークムント・フロイトが提唱する「エディプスコンプレックス」ではここが「父親」になります。単純化するための方便ですが、この考えを「父系」「母系」と端から色分けしてしまうと途中で混乱しそうなので、そうした考えはとりあえず払拭してください。で、極論ですが、この「阿闍世コンプレックス」と「エディプスコンプレックス」は同根であると考えています。

これは特別なことではなく、事実、フロイト派の学者の中で「エディプスコンプレックス」といえば、男女どちらにも適用できる言葉であり、人間の心的な発達から「神経症」を発症するケースの中で取り入れられている考えです。では「阿闍世コンプレックス」とは「エディプスコンプレックス」の日本版かといえば、そうではないのが少々ややこしいところなのです。この「阿闍世コンプレックス」は古澤平作(こさわ へいさく:1897年~ 1968年)が提唱し、小此木啓吾が独自の解釈を加え、一般に広めた精神分析の概念です(確か…)。確かにフロイトの「エディプスコンプレックス」では父親が、古澤の「阿闍世コンプレックス」では母親が子供との精神的葛藤の対象となりますが、それは物語を引用するにあたって子供が「男の子」であるからです。ここに「女の子」を置けば、「エディプスコンプレックス」と「阿闍世コンプレックス」が逆の位相となります。

つまり(ここ、重要ですからね。テストには出ないですけど…)、「息子と母親&父親」の関係、そして「娘と母親&父親」の関係を並べてみれば、ベクトルのあり様が変わるということです。「阿闍世」の一般に言われる物語(諸説、諸解釈有り)を単純化すれば「母親が罪を犯してまで生んだ我が子(男の子)がいずれその母親の罪によって自分が生まれたことを知り、父母を幽閉し父を死に至らしめるが、母親の殺害は思いとどまり、その罪悪感から病となり、最後は釈尊に救いを求める」ということで、「エディプス」は「(フロイトは往々にして性的なものに根源的なものを求めるので、それを薄めます)子供(息子)は異性である母親の愛情を手に入れ、父親のような地位を手に入れようとするが、それは父親に対して敵対することであり、父親の激しい脅しを受けることになります。しかし、母親を得るために(寓話的には)父親を殺害するということになります。ここに激しい葛藤の末の行動により、やはり罪悪感というものが生まれます」(ハー…、疲れた)。

上記の話を「女の子」に喩えて語れば、独占欲の対象が母親と父親、逆になります。「阿闍世」の話は諸説あって形を変えることもあるようですが、実際仏説の中にはそのような話があるようです。まあ、ユングもそうですけど「喩え」を多用して余計難しくなるという事に、心理学を学ぶ方は慣れていらっしゃると思います。ここでの話のポイントは、古澤平作が「エディプス」に対して、なぜ「阿闍世」を持ち出したか、ということなのですが、「エディプス」では「敵である存在への対抗心と、その敵への恐ろしさ」が葛藤の根源です。が、「阿闍世」では「思慕する者を独占したい想いと、その罪に対する許しを請う気持ち」が葛藤となります。両方とも「正と負の葛藤(Conflict)」です。

ここで、(唐突ながら)土井健郎の「甘えの構造」の「甘え」という概念が重要になってくるのですが、無理くりのハイブリッドではありません。この「甘え」という考え程、日本人自ら誤解しているのではないかと思えるのです。「日本人は甘えん坊ばっかり。だから自立できない」とか使われたり、「日本人は相互に甘える依存体質が強い」とか。違います。土井建郎のいう「甘え」とは、日本人の精神構造として特異なものであることの「発見」から提唱されたもので、彼はこの「甘え」という概念が諸外国においては類型するものがないことに気づき、そこに日本人独特の心性を求めたという、あくまでも日本人の精神を築く上での重要なファクターを発見したということです。もう一度言います。「日本人は甘えん坊」ということではないのです。その「甘え」とは、優れて自省的な精神が許しを請い、「相互にそれを理解して許しあう」という個の精神構造であり、その集合である「社会」の特質です。

「エディプスコンプレックス」では「子供は親とのコンフリクトを合理的に避け、社会人として親離れしていく」という帰結に至り、「阿闍世コンプレックス」では「深い罪悪感の中で救いを請い、その対象との融和によって、社会人としての救いを得る」という帰結に至ります。つまり「独り立ち」という精神構造と「許しによる一体感」という精神構造の違いを表したかったのだと、学生時代の私は解釈しました。で、それは今でも変わっていません。まあ、日本も随分とグローバリズムとやらのおかげで経済優先となって、「独り立ち」も「許しによる一体感」なんてのも「ハイ、ナンボ」という貨幣価値優先の中で希薄にはなったとは思いますけど。

ちなみに、後出しジャンケンのようになりますが、トドのつまり、「阿闍世コンプレックス」は「エディプスコンプレックス」と見做すのが妥当という学者たちの見方があるようです。まあ、「阿闍世」の話は仏典の中に納まっている話でややこしいし、土井建郎の「甘えの構造」も「甘え」という精神的特性は諸外国にも見られるとかで、今やその議論も尻切れトンボらしく、学術的な熱をどちらも失っているようですから、ま、目を吊り上げて口角泡を飛ばすような議論にはもうならないでしょう。しかし、この「阿闍世コンプレックス」なる言葉を聞いた時に、土井建郎のいう「甘え」という考えが重なり、学生時代に考え込んでしまった残滓が今になって搔き揚げられた、ということですかね。本来は「日本人論」という大上段から行きたくなるのですが、口が裂けそうで…。まあ、冒頭でも述べた「一言では語れぬややこしさ」が日本人の精神構造の中にあるのは事実です。それが何に由来するのか…。あ、もう脳みそが限界ですので、この辺で…。

人文・思想 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.