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人文・思想 その38「限界を迎えた欧米哲学を超える日本哲学の集約 西田幾多郎」


本 西田幾多郎の名をご存知の方は意外と少ないのではないかと思います。同じ明治期の哲学者、西周(にしあまね)や井上円了(いのうええんりょう:東洋大の創設者)のほうがその名を知られているのではないかと思います。西周は、哲学者というより、幕臣・官僚・啓蒙思想家といったイメージが強いのですが「philosophy」を「哲学」と訳した名誉に預かっています。その他にもWikipediaによれば、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」などの訳語は西周が考案したものであるそうで、コピーライター的(?)才能もお持ちだったみたいですね。井上円了は仏教哲学者という、宗教と近代哲学とのハイブリッドな世界を切り開き、「妖怪学講義」などの著書や、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれたことで有名ですね。まあ、それも「迷信を打破するための妖怪研究」故にそんなイメージを持たれるのでしょうが、当時(明治)、西洋の「哲学なるもの」を解釈し、それを研究の対象にできる者はごくわずかで、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)でも数名しかいなかったようです。

喩えが良いのか悪いのか分かりませんが、当時の「哲学」とは、天平の昔の「仏教」と同じで、「当時の最先端のインテリジェンス」といった趣であっただろうと思います。それを解するものは、その時代の超エリートであり、西田幾多郎もその一人です。この西田幾多郎は「日本で唯一の哲学者」と呼ばれますが、失礼ながらそれには個人的に少々抵抗があります。「それは違う」ということではなく、それが「大雑把すぎる」評価であると思うからです。分かりやすく説明すれば、哲学なるものには「法哲学」「教育哲学」「経営哲学」「科学哲学」「環境哲学」など、例えば宗教は「生命哲学」であるとか、思いつくままに挙げても相当な領域があり、その哲学が成り立つ分野があります。つまり、様々なものが「対象」となり、その「在り様」「在り方」を考察し、体系立てるのが「哲学」であるとすれば、一言で「哲学」と言ってしまうと、あまりにも茫漠としてしまいかねないと思います。あえて呼ぶなら、その根本的な形を示す「純粋哲学」とでも呼ぶべきでしょう。西田幾多郎が切り開いた「日本の哲学」とは、そうした「日本独自・特有の純粋哲学」であると考えます。

西田幾多郎を、個人的には「唯一の日本の哲学者」と称する方が適切であると思います。欧米哲学に対する「日本哲学」を生み出したと称されるべきです。西田幾多郎は1870年(明治3年)の生まれで、太平洋戦争が終結する年の1945年(昭和20年)に亡くなっています。まさに近代日本をそのまま歩んだ人物です。ちなみにここまで「欧米哲学」という言葉を使いましたが、それは「日本哲学」に対応する言葉として掲げただけで、「欧と米」は趣を異にします。正確に言うなら欧州の「西洋哲学」があって「米国哲学」があるということでしょう。まず「米国哲学」とはこれこそ「プラグマティズム」であり、それは欧州に対して歴史的にも宗教的にも対抗する必要から米国が生み出した「哲学」です。「プラグマティズム」に関しては本サイトの「人文・思想その4」に書きましたので、よろしければご覧ください。西田幾多郎が対峙したのは欧州、つまり「西洋」でしょう。ここより西田幾多郎の「日本哲学」、それに対する「西洋哲学」の表現を取ります。

西田幾太郎は「西洋哲学」を、古代のギリシャ哲学から近代の哲学まで、彼なりに咀嚼し、その上で彼独自の手法で、「西洋哲学」に対抗しうる「日本哲学」を生み出そうとします。しかし、ここで、何故、西田幾多郎は「西洋」に対する「日本」としての対立軸を哲学として求めようとしたのでしょうか? その時代は国を挙げて「欧化」の道をひた走る真っただ中にいるわけです。もともと彼は「西洋との対立」を前提として哲学を始めた訳ではないようです。ただし、彼の目には「西洋哲学」が、もはや「限界」に突き当たっていると映ったのでしょう。少々雑駁に言ってしまえば、西洋で起こった産業革命以来の「資本主義」「効率主義」「実利主義」「現実主義」「経済的暴力」等々が社会を飛躍的に変貌させ、あたかもそれが夢の未来に向かうような風潮に埋め尽くされ、結局はその上に成り立った「哲学」が一体何を生み出し、どうなって行くのか、ということが、西田幾多郎の脳裏には「破滅的」なイメージとして浮かび上がったのではないでしょうか。

西田哲学に対してアプローチを試みるに、全面的にいけば論文になってしまいますので、少し絞り込んで考えてみたいと思います。それは、彼が打ち出した「純粋経験」という考え。この言葉は西田幾多郎の「善の研究」という著書の中で表されている言葉ですが、その言わんとするところを多少要約して記すと「経験するというのは、事実をそのままに知るということであり、自己の想いは捨て、事実そのままに従って物事を知ることで、ただただ経験そのままのことをいうのである。そこには主客はなく、知識とその対象とが全く同質のものとしてある」でしょう。この西田幾多郎の言葉を見た時、即座に思い浮かべた思想家が二人います。一人は陽明学の「王陽明」、もう一人は国学の「本居宣長」です。陽明学の「心即理」、そして本居宣長の「やまと心」。この二人の人物の思想が西田幾多郎の上でピタリと重なるのです。ちなみに、この両者も本サイトの「社会・政治その8」と「人文・思想その12」に書きましたので、ご参考までにどうぞ。

王陽明と本居宣長の二人から西田幾多郎にアプローチしていくとややこしいので、本居宣長の「やまと心」に絞って、そこに「西田哲学=日本の哲学」を重ねて考えてみたいと思います。本居宣長の思想のコアにあるものは「古事記」ですが、同じような比重で「万葉集」「源氏物語」があります。そこには日本人本来が持っていた「感受性」が著されており、本居宣長はそれらを読み解くことから、「源氏物語」の中に見られる「もののあわれ」こそが日本固有の情緒であり、古来からの自然な情緒であると考え、「あるがままに受け入れる心」こそがまさにそれであるとして、それを「やまと心」とします。外来の儒教などは極めて「修辞的(レトリカル)」であり、自然な情緒に背くものとして、それを排します。この「やまと心」と西田幾多郎の「純粋経験」とが、私にはその杢目部分までもがピタリと合わさるように感じるのです。

本居宣長の詩に「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」という句がありますが、意訳すれば「大和心とは何かと人に聞かれれば、それは朝日に映えて匂う山桜花であると答える」でしょう。これがまさに「純粋経験」の概念と重なるのです。朝日に照らされて映える山桜花の匂いが辺りに立ち込める様を眺めた(そこに身を置いた)時、私たちは忘我の想いでその景色を眺めるでしょう。「何故?」などという疑問はそこには存在しません。あるのは「美しい」という思いだけでしょう。ちなみに、本居宣長は「疑問」の存在を認めません。それは「何故…? 何故…?」と再生産を続けるだけで、いつまで経ってもその本質に辿りつけないものとしています。人が「美しいもの」を眺めて「美しい」と感じているその様はまさに「忘我」の境地でしょう。そこには「無私」である存在があり、囚われるような「私」は無い、という考えで、これは西田哲学のプロトタイプではないでしょうか。

そもそも、本居宣長の「国学」は、それまでの大陸から輸入された思想への「限界感」から生まれたものであり、西田哲学のプロセスと殆ど同じです。まあ、本居宣長の場合は当時の幕府による、大陸的な考え方への反発、「国産」への志向があったのでしょうけど。しかし、時代の悲劇というか、本居宣長の「やまと心」は「大和魂」として、情緒の欠片もない勇ましい言葉に変容して、あろうことか、この国の限界を迎えて破滅に向かいます。西田哲学の「禅」にも通じる(事実、禅のような仏教思想が西田哲学に大きな影響を与えています)、自我を「無」とする、まさに「西洋哲学」の「自我の肥大」と真逆の「西田哲学=日本哲学」は花開くことなく、「西洋哲学」と「大和魂」とが醜悪に入り混じった、愚かで根拠もない「大日本優越感帝国」の中で、国を焼き尽くしてしまいます。そして、今もなお「西洋哲学」の価値観は、新たな「グローバル主義」なるスローガンを生み出して醜悪な夢を振りまき、世界を混乱に追いやっています。

「金儲け」という「資本主義が人間を幸せにする」という経済成長はもはや限界に近づき、資本主義とは行き着く先がポピュリズムであり「暴力・詐欺」であるということが露呈しても、なお、人は「私」から離れられず、「西田哲学」のような思想は一蹴されてしまうのが現実です。しかし、だからこそ「西田哲学」を引き継ぎ、時代に訴えることができるのは、西田幾多郎の「日本哲学」であると考えます。世界、すなわち「欧米哲学」が主流を成す中で、西田幾多郎は今こそ、その志を再評価されるべき存在であると思います。「持つ論理」があるなら「持たぬ論理」もあるはずです。おそらくは、限界に近づいた「西洋哲学」を拝する日本の中で、新たな「動き」が起こる予感はするのですが…。「日本哲学」が市民権を持つ言葉となる可能性は…。

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