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人文・思想 その39「黄金の2トップ 法然無くして親鸞無し 信仰の最終形」


本 新聞でもWEB上のニュースでも目にしますが、浄土宗を開いた法然と浄土真宗の宗祖親鸞に関して、学校の教科書で「法然の教えを親鸞が『徹底・発展』させた」などの表現が、「法然は親鸞より劣る」との誤解を与える可能性があるとして、教科書の表記を修正する動きが相次いでいる、とか…。さて、その修正された表記とやらですが、「親鸞は『独自に』『新たな教説を生み出した』」とか、「法然の教えを継承しつつも、独自の道を歩むこととなった」とか「(法然の考えを)独自に展開してきた」とか…。ハイ、だんだんムカつき始めました。バカバカしいというより、日本の知性・教養を支えるはずの教科書「制作出版社」&教育界のオツムはこの程度なのかと脱力系のお笑いを見ているような気分です。「誰がこれまでの教科書見て、法然と親鸞の優劣を比較しとんじゃ!」ってな気分で、バカ探しをやってみたい気分。

直接抗議しているわけではないようですが、そのきっかけはどうも、朝日新聞の記事(2017.3.17)によれば浄土宗の宗議会でそれが問題として取り上げられ、宗総合研究所が教科書での表現を調査したことが影響しているようです。別に教科書会社に修正を求めたことはないと言っていますが、教科書会社側がその動きを斟酌したことは濃厚でしょ。大手教科書会社の一つは「仏教界から指摘されたことはないが…」とコメントしていますが、じゃあ、もともとが仏教界なんて無視して勝手に「法然と親鸞がああだこうだ」とやっているって事ね…。で、「修正を検討する」とか言っているのね。浄土宗の調査の中心になった大学教授は「公正であるべき教科書が優劣をつけるのは、教育基本法の精神に反する」だって…。オイオイ、教育基本法まで持ち出してきてどうすんの…。浄土真宗本願寺と真宗大谷派は各々に「高校教科書の記述は、その時点での客観的、学術的研究の成果を正しく反映すべきだ」…、「教科書会社側が学会などの見識を踏まえ、総合的に検討して見直したと思う」…。何なんだよ…、コレ…。

法然や親鸞が、どこかでこの連中の動きを見ていたとしたら(そんなことはないか…)、何て思うのでしょうね。大笑いしてるかもね。少なくとも苦笑はしているだろうな。「現代人は暇そうじゃのう」「その程度のことを問題視するとは、日本人もバカになってしまったのか、幸福なのか…」なんて言ってるかも。まあ、それこそ現代人に対して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…、か。両ご上人よ、嘆いてください。宗教とは「組織」であり「既得者」であり、「政治屋」であり「算盤」に成り下がって、本来の「人を救う」力は今や微塵も持っていないのです。ここでの両ご上人の存在は、教科書をもとにした大学受験の出題の問題でしかないのです。その、時代と時の権力を向こうに回して「人の救い」の道を血を流す想いで求められたその成果がこれです。まあ、現代人は幸せということなのでしょう。

筒井康隆風に言えば、「あたしゃ、もうキレますよ!」ってな気持ちです。法然と親鸞の関係がどうであろうと、浄土宗と浄土真宗との関係がどうであろうと、最も大事なのは「呼び名」でも「権威」でも「優劣」などでもなく、ましてやチマチマとした歴史的事実とやらの積み重ねなどではなく、「この世と人をどのようにとらえているのか」「人をいかに救う思想と行為を持っているのか」、という、それこそ最も重要な宗教そのものの「機能」「役割」「働き」をスッ飛ばして、受験的な「解釈」「知識」にフォーカスすることが何の意味をわれわれにもたらしてくれるのか! あんたらで勝手にやってろよ! と少々、ヒステリックに喚きたくなりますね、ってもう喚いてるけど…。余談ですが、今は王陽明のような気分です。過剰な知識に頼った「考え」にどれほどの力があるのか…。「心即理」…。興味のある方は本サイト「社会・政治その8」をご覧ください。

毎度の前置きですが、私は学者ではありません。ですから、教科書的な作業はその専門家にお任せします。法然がどこで生まれてどのようなケースヒストリーを過ごしたか、親鸞が同様にどこで生まれて…、なんてのは私のものの考え方にはほとんど影響しませんので「ああ、そうですか」程度のことです。基礎的な研究・調査として全く意味がないとは言っていません。それはそれ、ということです。私にとって最も大事なのは、そこにある「考え」です。宗教が何故宗教として存在し、その時代と、その時代を生きる人に対して、何を示し、どのように関わろうとしているかということです。自分の脳ミソの中に渦巻いているものを叩き出します。勘違い、思い込み上等! 価値があるのは、そこに至る知識の量ではなく、「自分の頭で考えたこと」です。

そもそも、法然はそれまでの「平安仏教」という、「権威主義」の中で根太が腐り始めている仏教界とのしがらみの中にあり、既存の「優等生、インテリジェンス」仏教では「人は救えない」と考え始めた稀有な存在です。僧が「人を救う」ということを考えるのが当たり前だとお考えですか。それならそれで結構ですけど、「平安仏教」が仮に人を救うとしたら、その「人」とは「貴族たち」です。それ以外のいわゆる「平民」は対象外です。その中で「全ての人を救う」仏教の在り方を考え始めたのが法然です。空海の段階では仏教は純粋な宗教というより、「大陸の新知識」の窓口であったでしょう。つまり、インテリジェンスです。しかし、それらが機能しなくなった時、お約束の形骸化が始まり、12世紀初頭までの当時の支配階級である平安貴族(武士はもう少ししてから力を持ちます)を「極楽浄土」に「往生」させるのが当時の仏教界です。法然は比叡山で修行を積みながら、その在り方に疑問を持ったことでしょう。そして、万人が阿弥陀仏の誓い(救済)を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、平等に往生できるという専修念仏の教えに行き着き、のちに浄土宗の開祖となります。私はその法然のたった一言が鎌倉仏教という、日本独自の「仏教カンブリア紀」(「歴史・地理その10」をご参考ください)の幕を開いたと考えます。その一言とは「人は、自らを自分一人では救えない」、です。

阿弥陀仏の本願にすがるという「絶対他力」という言葉はいまだに誤解の多い言葉だと思いますが、これは「人頼み」の意などでは金輪際無く、まさに前述の「人は、自らを…」という考えに基づくものです。浄土宗を簡潔に言うなら、その「救い=往生(極楽浄土に生まれる)」という阿弥陀如来の本願こそが、万人に約束されているものであり、そのためには自らが絶対的な「信心を持つ存在」にならねばならないとした教えです。そのために法然が示したのが「三心」であり、以下のものです。

「至誠心」
⇒心から阿弥陀仏を想い、浄土往生を一心に願うこと。
「深心」
⇒どのような人間であれ、念仏により阿弥陀仏は救ってくれることを、疑いなく深く信じる。
「廻向発願心」
⇒浄土往生への善行の功徳を積み、極楽浄土に生まれたいと願う心。

そして、それをさらに分かりやすく簡略化したのが親鸞です。法然は前記の「三心」による専修念仏による往生を説きましたが、親鸞は「念仏を唱えようとする心を持った時点で、その人は救われている」とし、それは万能であり、現世に生きる全ての者を往生へと導き、その罪からさえも救ってくれるとします。歎異抄の「悪人正機説」がまさにそれで、「善悪」を二元的なものとして捉えず、優れて一元的な宗教世界も持っています。簡潔に言えば「悪を救えないものなど、宗教ではない」であり、「その善悪とは人の本性として、何を以て判じるべきか」という、これ以上分解のしようもない純度の高い宗教へと、法然の教えを引き継ぎ、進化させます。ちなみに、親鸞が生きているうちに浄土真宗という言葉も「宗派」も「組織」もありません。後にできたもので、今現在の浄土真宗の組織は蓮如がその創設者であると見るのが妥当でしょう。

人が「南無阿弥陀仏」と唱える時、唱えようとするとき、それは人が「極めて宗教的」な存在となる瞬間であり、それは「仏」と一対一で対峙する瞬間です。それはまさに宗教のもっとも純粋な形態であると私は考えます。そのあたりのことは本サイトの「人文・思想その26」の後半部分で触れています。興味がおありの方はご覧ください。教科書でそのあたりのことを教える必要はないでしょうが、少なくとも「法然と親鸞との優劣(?)」などが問題になり、それを正す必要があると教科書会社、つまり教育界が騒ぐほど、日本人は劣ってきたのですか? 日本の教育は劣ってきたのですか? いつまでたっても「本質」的な事への議論がお粗末なこの国は、いつの時代に作られたのでしょう。戦後…? 法然と親鸞という黄金の2トップが再び、現れてくれるのはいつでしょうか、ねえ。

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