テキトー雑学堂 タイトルバナー

人文・思想 その40「道徳と法哲学 善の規定 悪の排除 似て非なる縛り」


本 えー、大学で一応、教育学を学んだ者として、昨今の「教育勅語」に関する政治屋どもの発言にはオツムがデングリ返り状態なのですが、特に大臣さんの「良いところもある」発言は、近所のスーパーでオバサンやオジサンが立ち話でする世間話より罪がないというか、意味も価値もないものです。「良いところもある」ですか…。では「悪いところもある」わけで、それはどこでしょうか? それを明確にせずして「良いところもある」とは、無責任を越えて、とても大脳を経た考えとは思えません。まあ、あーだこーだと言ってもどうなることでもありませんから、そういった発言がいかに阿保なことであるかを明確にしておきましょう。あれは「良いところもある」なんて代物ではなく、存在自体が今の時代では否定されているのです。

クドクド解説なんかしても仕方ないので、原文の「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」と「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」くらいを例にして、「良いところもある」なんて、国政レベルで出てくるような言葉ではないことをおっしゃった政治屋の方々に聞きたいものです。これ、当然ご存知だと思いますが、訳するまでもないのですけど一応の意味は「私の臣下(家来)は良く忠と孝に…」で、もうひとつは「万一の危急の大事が起った時には、大義(皇国臣民=家来)のために勇気をふるって一身を捧げ(命をも投げ出し)皇室国家の為につくせ(黙って従え)」でいいでしょう。さあ、これは「良いこと」ですか? それとも「悪いこと」?
 今の世の中、「国民は天皇の家来(臣)であり、命を投げ出してでも国につくせ」といったら、完全無視か本気の議論に及べばボコボコにされると思いますけど。われわれは、あの敗戦の教訓としてこれを否定したのですよ? まさか、これもGHQ(アメリカ)に押し付けられたとか言い始めるんじゃないでしょうね。もし、これが「良いこと」であるなら、そう言った政治屋自らがこれを実践すべきです。口先だけじゃダメ。

と、「脱力系」の出だしですでに気分的に疲労しましたが、これは私自身の考えを最低限明確にしておいたということで、これから書こうとすることは、今までに書いたことと違うことを書くことになります。「もしかしたら、教育勅語は時代が求める正しいことであるかもしれない」のです。「では、前述したことは嘘なのか?」と言われそうですが、そうではないのです。この「教育勅語」の問題から「道徳」と「法哲学」なるものを考えてみようと思っているのですが、それは「数学・化学」のような一定の法則性のもとに成り立つものではなく、「量子力学」のように「すべてのものが特定できない(いずれは明確に特定できるかも、ですが…)」世界で語らねばならないということなのです。どういうことか? つまり、その「良し悪し」があるとすれば、それを決めるのは「時代の空気、雰囲気」であるとしか言えないからです。

まず「道徳」を「人が社会を営む中であるべき姿」である、とします。となれば「人に迷惑をかけない」「親や目上の人を大切にする」「人のものを奪わない」「人を傷つけない」等々は当然ながら社会の中で必要な「人の素養」であると言えますし、違うという人が全くいないとは言いませんが、(建前上)殆どいないでしょう。では、「教育勅語」を読むと、少なくともそうした要素は入っています。では、やはり「良いところもある」のでしょうか? ここが問題です。道徳は確かに「その時代の善(良いこと)を規定する」ものでしょうが、先ほど書いたように「時代とともにそのニュアンスが変わっていく」ものなのです。分かりやすくするために「孝」と「忠」といったものに絞ってみます。これはかつての徳川幕府によって奨励された「道徳」観のコアを成す「善(良いこと)」であり、その精神は特に武士階級において朱子学によって煮詰められたものですが、とはいえ、これが永遠不滅の「規範」にはなり得ないのです。「親を大切にし、人を裏切らない」と解せるこの道徳観が、「悪しきもの」へと変貌するのは一瞬なのです。つまり、「親に虐待され、人に裏切られても我慢する」のが道徳だとしたら、従う人はいるでしょうか? まあ、あまりいないでしょう。

学生時代に講義で教わった「法律学」の教授の言葉がとても分かりやすかった。「道徳と法律は別物。しかし、道徳的な価値観が法律にとってはまさに『塩』の如く、ある程度は必要」。これは理屈ではなく直観的に分かります。「法」も道徳と同じように「その時代の空気、雰囲気」によって作られます。「身分制度」の社会であれば、それに基づいた「法」が作られ、「万民が平等」な社会であれば、それに基づいた「法」が作られます。で、その違いはまさに「道徳」と共有している「時代の空気、雰囲気」なのです。ただし、「法」は「道徳」のもとに作られるのではなく、そこには道徳とは違った「あるべき」哲学が必要となります。「あるべき」とは「悪の排除」であり、それは即ち大多数の了解を得られる「正しいこと」です。政治(行政)的にも。「良いこと」と「正しいこと」、似ているように思えますか? この二つは違うものなんです。

先に「孝」と「忠」を例として出しましたから、ここでも同様にこれを「法哲学」として考えれば、「親を大事にする」道徳的な事と「親への扶養義務」といった法律的な事は別物として考えなければいけません。「親が困っている時にそれを助ける」とはまさに道徳観としては普遍的とも思える、子供の「あるべき」姿に見えます。しかし、「法」が規定する「親への扶養義務」は「子供への扶養義務」とは違って、簡単に言えば「できる余裕があるならやりなさい」、です。共倒れになる状況を回避しているのです。自分の「子供」に対してはほぼ絶対的な義務になりますけど(親権を認められていなければ成立しませんが)。「忠」を、国を守る、ということで言えば、漫画のヒーローが国を守ればそれはカタルシス(気持ちの浄化。スッキリする)を覚えるかもしれません。しかし、現代の日本に「命を懸けて国を守れ」という「法哲学」はありませんから、徴兵制度もありません。しかし、戦前にはありました。その時代、日本人ならそれは当たり前、という法哲学によって作られた法律に縛られた時代・社会でしたから。今は、税金を払う義務のもと、国防は自衛隊(=国民)が担いますが、これも「法哲学」的には「解釈」でそうなっています。自衛以外に国民(=自衛隊)が戦闘行為に及ぶことを「法」が禁止しています。

説明があまりに簡略に過ぎたかもしれませんが、かように「道徳」と「法哲学」とは微妙な関係を持っているのです。時代の持つ「価値観」によって、「善」も「悪」も、コロコロと変わります。「教育勅語」はやはり正しい、とか。民主主義にしても、それが「良いこと」かどうかまだまだ分かりません。あのヒトラーは、当時世界最先端と言われたワイマール憲法を奉じる、民主主義国家であるワイマール共和国の中で、その民主主義によって「合法的」に生まれたという事実があります。民衆の熱狂的な歓迎を受けて…。非常事態宣言により独裁を認めたのも民主的なワイマール憲法です。そして、結果は…。先の、「教育勅語」を「良いところもある」なんて言ってる能天気な政治屋は、ヒトラーの所業を同じように評するのでしょうか? いや、しかし、それを笑えないんですよ。「道徳」と「法哲学」は、ちょっとしたバランスの崩れ(浅はかな思考か…)で、世の中を火の海にしかねないのです。ヒトラーと同じような存在が民主主義を謳う国から生まれてくる可能性は払拭できないのです。似て非なるこの二つの「縛り」は、人の「知性」によってのみ「そのバランスを絶妙に保ち得る」、そう考えます。「良いところもある」なんてのはその「知性」を失った状態と思わざるを得ません。

人文・思想 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.