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人文・思想 その41「生きて生きて生き抜く哲学 池田晶子から考える」


本 日曜日には某朝日新聞の書籍紹介のページを何となく読み流します。特に楽しみにしているとかではないのですが、「へー…」と思えるような本に、たまに出合うことがあり、それはそれで面白い。で、その書籍紹介を一通り読み終えて、もう一度新聞を読みなおそうとしたら、出版物の広告欄に池田晶子の書籍「絶望を生きる哲学」とあるのが目に留りました。そこに書かれていたコピーは「自分の人生を、他人のせいにするな。」…。これを見て、思わず茨木のり子女史の「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて」、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という「自分の感受性くらい」という詩の一節を思い出しました。茨木のり子に関しては本サイトの「文学・評論 その21」に書きましたので、興味がおありの方は是非、ご一読ください。

私、正直言って、池田晶子という存在は「タレント(?)エッセイ作家」で、そのコアに哲学があるなどという事は、知っていたような知らなかったような、その程度の認識でした。ただ、いまや故人となられた女史の言葉でしょうが、「自分の人生を、他人のせいにするな。」というこの言葉に茨木のり子女史を彷彿とし、思わず背筋が伸びてしまった次第で…。それで、改めて池田晶子の著書タイトルを眺めてみると、何ともストレートで、やはりあの茨木女史を彷彿とさせるようなタイトルが並んでいます。最初の著書は「最後からひとりめの読者による埴谷雄高論」で次が「事象そのものへ!」。この辺りのタイトルでしたら、申し訳ありませんが特に興味を惹かれることは無いのですが、その後に面白いタイトルが並んでいます。一部を(自分の好みで)抜粋すると、「帰ってきたソクラテス」「悪妻に訊け 帰ってきたソクラテス」「メタフィジカル・パンチ 形而上より愛を込めて」「睥睨するヘーゲル」「考える日々」「2001年哲学の旅」「あたりまえなことばかり」「知ることより考えること」「私とは誰か さて死んだのは誰なのか」等々、キリがないのでこの辺りで。

えー、ある程度歳が行くまでに様々な本を手に取りましたが、それらのタイトルの本を知っていた記憶と読んだことがあるかどうかの記憶が曖昧です。まあ、大体が乱読・斜め読みで、読書日記なんてつけているわけではないのでその辺りはボヤッとしたイメージの中で、その彼女の哲学なるものを考えてみたいと思います。前述した通り、彼女を「タレント(?)エッセイ作家」として認識していたのは、彼女が慶応ガールで雑誌のモデルをやっていたという事によるものだと思います。そのお姿はグラビア雑誌で何度かは拝見していますが、その背後に哲学の宇宙が広がっていたとは…。池田晶子については「NPO法人 わたくし、つまりNobody」のサイトがあり、その中に「池田晶子(公式ページ)」なるものがあります(最終行にURLを記してあります)。そこに女史のプロフィールや作品群が紹介されています。本サイトは書評サイトではありませんから、公式のそのサイトの情報が分かりやすいので、そこに書かれていることを参考にします。あまりキツイ「利用制限・規制」も無いようですから。

まず女史の作品群を概観するに、「あ、これ読んだかなあ…」的な記憶しかありません。おそらく、私は池田晶子的存在の哲学を、自分が志向する、どちらかというとマッチョな哲学の中で(大変に失礼ながら)あまり真剣に読んでいなかったか、興味を持ち得なかったのでしょう。しかしながら、そこに書かれている書評をダイジェスト的に読んでいくと、池田晶子の哲学のコアにあるものを何となく感じ取ることができます。単純すぎる言い方で恐縮ですが、それは、「考えずにはいられない。生きているという事実と対峙すれば、そこには感じて考える自分というどうしようもない存在があるではないですか」ということです。ちなみに、こうした自分の言葉に「間違っている」も「正しい」もないと思っていますので、一つのことに対する感受性はまさに多様であるという事をご了解ください。我々はどのように生きようと「考える」という事から逃れることなどできないのです(筈…)。それを満身で受け止めれば、池田晶子のような存在が生まれる、と。

池田晶子の生涯は46年間(~2007年)という、決して長いとは言えないものでしたが、その「生」の中にあったものは、日々、押し寄せてくる「無常」の流れの中で、何一つ身をかわすことなく考え続けた「自分自身」があり、それが哲学なるものを万人の身近に引き寄せ、「考え続けることによって鍛えられ、賢くなる頭脳」によって「哲学エッセイ」なる、持久力のある筆力が無ければ成り立たないジャンル(?)を確立させたのでしょう。評論などをやっているつもりはありません。その生き方に共感しているのです。「強く生きようとする」ことは往々にして「自己責任」なる「無責任」な言葉を背負わされますけど、「皆さん、人間の考えを信じすぎてやしませんか」なんて、サラリといなしている姿に「粋」を感じてしまいます。

「生きること」も「その中で考え続ける」ことも、本来、どうしようもなく重いものでしょう。「思考を停止させたまま」「思考を欠落させたまま」生きることはそれほど難しいことでもないように思います。しかし、それこそが自らに痩せた精神をもたらし、被害者意識を肥大させ、「悪いことは他人のせい」という思い込みの中に自分を閉じ込め、何も「生み出さない不毛の毎日」を「人生の苦しみ」と思うことが大勘違いであることに考えが至らない(考えていませんから)根本的な原因。それが、元凶であると気づくすべさえもない「自分」が一丁上がり…。これは事実です。そうしたことを、(私が好んだ)マッチョな目線からではなく、誰にでも共感できる日常的な目線から発信し続けた存在がいたことに、気が付けなかった自分に少々忸怩たるものを感じてしまいます。

池田晶子の「哲学」を考えるに、また、ある言葉を思い出しました。これは、新聞の記事で読んだのか、何かの作品で読んだのか忘れましたが、「元ハンセン病患者」の戦前からの「隔離政策」という一国の大愚行に対して言われた「それでも我々は、生きて生きて生きなければならない」という言葉に感銘を受けた記憶が蘇りました。「自分はなぜ生きている」「生きることに意味があるのか」などという言葉がありますが、全くの愚問であると私は断じます。「生きることに意味があるかだって…? 何故、生きているかだって…?」。こんな簡単な事に何故考えが至らないのでしょうか。答えは簡単です。それは「生まれたから」です。「生きる」など、考えずとも、ノッシノッシと歩いている自分の存在があるのは錯覚? な訳ないでしょ。池田晶子の「哲学」はこう言っているのです。とにかく「考えろよ」、って。

NPO法人 わたくし、つまりNobody 公式サイト>
https://www.nobody.or.jp/


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