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人文・思想 その42「内村鑑三が、日本人としてキリスト教に求めたもの」


本 本サイトを簡単に言ってしまえば、「本屋さん」ではありますが、なぜ「本屋」なのかと言えば、あれこれと「雑食系」で「本」を読むことを楽しんでいると、様々なジャンルの壁が融着し始め、ついにはそれが縦横無尽に(テキトーに…)つながり始めるのが面白く、それが「雑学」なるものに至り、その楽しさを手前勝手にあれこれと書いて、大きなお世話であろうとも、人様にもそれを「如何ですか?」とお勧めしようとしている所以からです。ですから、一般に言われていることの予定調和的な解説などやりません(できません…)。あれこれ、妄想に近いことを思い浮かべ、勝手に自分の考えを文字にして楽しんでいます。同意していただこうなどとは毛頭思わず、否定されようとも「でしょうね」と平気の平左。つまり、記事を書いている本人が楽しんでいるだけなのです。その中で僅かながら面白いと思っていただければまさに僥倖。

ってな、能書きを前振りしたところで、行きます。以前からこの内村鑑三なる人物にはある種の「違和感」のような、ハッキリと焦点を絞り込めないような印象を持っていました。理由は「なぜ、キリスト教なの?」という、不遜かもしれませんが、別にキリスト教がそこになくとも、思想家としての内村鑑三は歴史の中で成立していたように思えるのです。彼の「余は如何にして基督信徒となりし乎」は飛ばし読みをした程度の記憶しかありません。そこに内村鑑三とキリスト教とを結びつける必然性があるかもしれないのに、なぜ「飛ばし読みを…」と思われるかもしれませんが、そこにあるのが極めて個人的な「自分とキリスト教との関わり」であるとの感がどうしても拭えなかったからです。私はもっと、あの明治という「日本が近代に向かう」という高揚と混沌の中で、キリスト教を以って時代の変革に臨む、といった、ちょっと趣が違うかもしれませんが、奈良時代に聖武天皇が国家の礎として廬舎那仏建立を行ったような志の様なものがあるのかな、なんて(勝手に)思ったのですが、ちょっと違うか、なんて感じてしまったのです。

で、改めて、それなりに歳をとって考えてみると、何となく、そこに「キリスト教」が内村鑑三のコアとして必要であったという景色が見えてきました。まあ、テキトーな「考え」ご容赦ということで。それはやはり、彼の墓碑銘である "I for Japan;Japan for the World;The World for Christ;And All for God" を改めて解釈してみようと思ったところからです。これは一般に「私は日本のために。日本は世界のために。世界はキリストのために。そして全ては神のために」と訳されて、大意としてはそれほど多くのバリエーションを持って訳される一文ではないと思いますが、この最後の "And All for God" をそのままに受け入れるのではなく、ちょっと違う角度から眺めてみると、彼とキリスト教、というか「近代日本人とキリスト教」との接点のようなものが感じられるのです。

その前の "The World for Christ" は同じような意を持つとして、 "God" なのですが、この日本には明確に "God" と呼べる存在はいません。仏教は新国家建設のための一種のインテリジェンスとしてこの国に取り入れられたもので、神道から考えてもそこに絶対的な "God" はいません。この国は、多神教的な世界観の中で見事なバランスを保ち、そのままの形でも「連邦的」な近代国家を築けたと思います。例えば今のアメリカ合衆国の様な。天皇は戦後にいきなりそうなったのではなく、遥か昔から「国家、民族統合の象徴」としての機能を持つ「権威」として存在していました。それをそのまま「連邦国家」の中で存続させることは全く問題のないことで、むしろ最初からそうした選択があり得たと思います。徳川の世(幕藩体制)はそれに近いのでは。幕末を迎えても、徳川慶喜に、「近代的連邦国家」の考えを持っていたような形跡があります。が、薩長はそれを許さず、結局は効率重視(かな?)の中央集権国家をアッという間に作り上げてしまいます。

私はそこに、内村鑑三という人間の大いなる懊悩があったのではないかと思うのです。これは世界中同じことですが、国家の権力が大きくなる時に「個人がそれに押し潰される」という事実。内村鑑三は近代日本でも外国でもそれを目の当たりにして、落胆などというには生やさしすぎる「現実への幻滅」を覚えたのではないでしょうか。その時の彼の脳裏に浮かんだのが、所詮は人の業である「国家権力」など遥かに凌駕する普遍的な「理」「権威」といった存在であるのは "God" であり、それがキリスト教の中にあったという、極めてシンプルで、それゆえに強固な「構造」を見い出したのではないでしょうか。内村鑑三がキリスト教徒となった経緯には札幌農学校時代の「成り行き、勢い」のようなものを感じてしまいますが、それは結果オーライとして、内村鑑三はそこで「近代日本」のあるべき姿を導き出すための力、 "God" を得たのでしょう。

そう考えると、内村鑑三が「代表的日本人」を著した意義というものが理解できます。これは、岡倉天心の「茶の本」、新渡戸稲造の「武士道」、と並び、日本人が英語で日本の文化、思想を西欧社会に紹介した代表的な著作として内外から評価されています。「代表的日本人」として描かれたのは「西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人」の五人ですが、その個々の表記については主題ではありませんので省くとして、「日本人」が古来よりその特性として持っているものを明らかにし、さらに近代日本の中でその特性を生かし、世界と伍していくためにこの「代表的日本人」の存在と、 "God" が不可欠であったのでしょう。ただ単に "God" を持ち出すためのキリスト教と、日本という国を理解させるだけの著作物では何の「化学反応」も期待できないでしょう。この両者がセットになってこそ、内村鑑三の考える「近代日本のあるべき姿」が世界の中で焦点を結び始めてくるのだと考えます。

さあ、ここで「雑学脳」の本領(?)発揮です。その、内村鑑三が考えた「近代日本のあるべき姿」とは一体、どのようなものでしょうか。それは「世界国家」ではないでしょうか。イメージとしては後年の「国際連盟」「国際連合」の様なもので、多様な民族・文化を融和させる権威として "God" が必要であり、キリスト教が最も「普遍的」と思われる形を持っていた、そう考えたのではないでしょうか。それゆえに "I for Japan;Japan for the World;The World for Christ;And All for God" が、その行き着くところ 。おそらく、そこには内村鑑三の高揚した思いが込められているのではないかと思います。ただ、最後に自分で話の腰を折ります。その"God" に「普遍性」があったとしても、果たして「絶対的な善」「絶対的な寛容」をそこに見出すことができるのでしょうか。内村鑑三なる人物について考えながら、グルグルと頭が回ってしまうような気がします。まあ、それが「雑学脳」の醍醐味、かな…?

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