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人文・思想 その5「中国を理解するには まず道教から」


本 歴史的に見て、中国は日本のみならず、東アジア全体に強い文化的影響を与えた大国です。何を以て大国というかは時代によって変わりますが、少なくとも世界三大文明発祥のひとつとして、その存在がアジア史の中心となるのは疑いない事です。我々が具体的にその思想なり考え方なりに接することができるのは春秋戦国時代からだと思います。先に「諸子百家」について「歴史・地理その2」に孔子、孫子等々について書きましたが、そこで書かなかった道家、老子と荘子について考えてみます。

老子、荘子は歴史の立場から書くより「思想」の立場から書くべきだと考えます。なぜなら、他の思想家も現代までの二千年を生き続けていますが、その多くは教義的な形で残っているものと思いますけど、この老子、荘子、いわゆる老荘思想は現代でも中国という国の中で、その精神の根幹ともいえる思想(宗教?)として、特に大多数の庶民の中に生き続けていると考えるからです。私個人の少ない「中国なるもの」との接触体験の中でも、これは強く感じるものです。いわば、孔子、孫子、韓非子、孟子、荀子がエリート層、もしくは知識人の中で生き続けているのに比べ、老荘思想は中国社会全般に広く強く浸透し、彼の国の「考え方」に通じていると思います。つまり、「中国を理解するなら、道教を知る事から」と考えている訳です。
   
道教の祖としては老子、荘子の、いわゆる老荘思想が上げられますが、学術的には直接の関係は無いとなっているそうです。しかし、事実としてその考えを源流とした「道教(Tao-ism)」が言葉として生きている(西欧の研究科は老荘と道教の関係を認める見解を示しており、日本もそれにならう傾向にある)以上、道教は老荘思想を教義の中核に据えた宗教として捉えることが妥当だと考えます。実際、「儒教、仏教」と並んで「道教」は中国の三大宗教として広く一般の生活の中に浸透しています。例えて言えば、密教にもそうした側面があり、空海や最澄が日本に持ち帰った「正統密教?」とは別に、一般民衆の中に根を降ろしている「雑密(ぞうみつ)」なるものがあります。これは、簡単に言ってしまえば生活の中の「おまじない」で、「痛いの痛いの、飛んで行けー」みたいなものです。いずれにしても道教が国教となったのは、唐代くらいです(その思想が治世に取り入れられたことはけっこうあるようです)が、民間信仰として二千年の歴史を生き抜いて来ています。
  
で、その道教の祖である老子と荘子についてですが、老子は実在の人物かどうかかなり怪しい存在です。実際に存在したという決定的な証拠がありません。伝説上の人物といってもよいかと思います。年齢が数百歳であったとか、孔子が老子に教えを受けたとか…。荘子が自著で孔子が老子に教えを乞うたような事を書いていますが、これも具体的な証拠とは言い難いようです。荘子自体が「寓話」を多用しているからでしょう。ただ、当時の書物に老子の名がたびたび登場し、引用されている事から「伝説の賢者」とされていたのは事実でしょう。老子の「老子道徳経」は後世の作という見方が有力です。これはまさに「道徳の教科書」であり、また「処世訓」のような書物です。チョットだけご紹介すると「足るを知る」や「不知の知」など、比較的ポピュラーな内容です。前者は「欲は際限が無く、身を滅ぼすものであるから、ある程度で見切りをつけなさい」、後者は「知ったかぶりを諌める」といった事です。まあ、とりあえず、一般に「老荘」といわれていますが、荘子は荘子として捉えるべきなのでしょう。
 
この荘子なる人物、これも分かり難い。個人的感想ですが、「喩え」を多用するのでユングにも似た難解さがあります。私は学者ではありませんので正確に内容を把握している訳でありませんが、その考えの根幹には「無為自然」があり、これがまた、四方八方、どのようにでも解釈できます。有名なのは「胡蝶の夢」です。これは「胡蝶となり楽しく遊ぶ夢を見たが、これは自分が夢で蝶になったのか、蝶が夢で自分となっているのか」という、近代のニーチェ、ハイデガー、ヤスパースの系譜に連なる実存主義(サルトルは違う)の祖のような命題です。老子(といわれるもの)が比較的、政治色を強く帯びているのに対して、荘子はかなり俗世間からは距離を置いて、絶対的なものを排しています。まさに無為の世界に「遊ぶ」訳ですから、少し飛躍しますけど、道教のコアにある「神仙思想」に辿り着くのでしょう。実際には、現実的な老子と、形式を重んじる孔子と、全てを相対的に捉える荘子がゴチャマゼになって「道教」なるものが生まれてくる訳ですが、共通の括りは「神仙界はあってもあの世は無く、徹底して現生と向き合った思想」であるという事です。これが「不老不死の霊薬、丹を練り、仙人となることを究極の理想とする」道教へと体系だって行ったのでしょう。
  
道教が理想とするのは「不老不死(秦の始皇帝と徐福が有名)」ですから、他の宗教のように「あの世」が無いのは当然です。その不老不死を求める過程は、ヨーロッパの「錬金術」に近いと考えます。つまり、それが結果的に化学、医学、農学、工学等々、様々な分野のテクノロジーへと発展していきます。また、ある意味「神仙」とは、誤解を恐れずに言えばオカルティズムにも通じる考えであり、以上をひとまとめにすれば「様々な術を駆使して、道(タオ:神仙へと向かう道という意味では? 理解するのが難しい概念)へ向かう修行を積み、穢れた人間界を脱して神仙界に至る」と表現できるのではないでしょうか。これって、「超人思想」ですね。しかし、ここまでハッキリとそれを目指している宗教(?)は珍しいのではないでしょうか。「徳」とか「礼」とかいった要素は微塵も残っていません。かなり徹底して「現生での利益」を目指した「あの手この手」の考え方ではないでしょうか。そして至るところは「神仙=スーパーパワー」。
  
道教の体系(歴史と変遷)は世界に類を見ないほど複雑で、とても一言では言えないのですが、その行着くところは本来的な「脱世俗により、神仙世界に遊ぶ」というより、「不老不死を望み、万能の力を得る」です。以前、台湾にある道観(道教の寺)に行った事がありますが、日本の巣鴨とげぬき地蔵などと違って、若い人の姿が多いのにちょっと驚きました。供物は「あの世のお金」である紙幣風のものを燃やして天に送るということで、私もやってみました。賽銭箱のようなものは見当たらなかったですね(見落としたかも…)。スーパーパワーの象徴であるのか、歴史上の英雄・豪傑が神として祀られるようで、そこでは三国志の英雄「関羽」の像が祀られていました。

日本人として持っているメンタリティからいうと、雰囲気的には仏教や神道に似ているようで、全く違う、かなり「アクティブ」なものを感じました。厳粛とか、畏敬といった雰囲気ではない…。ある本の書評で見かけた「中国人による中国人観」ですが「列をなさずに殺到する国民性」だとか…。中国二千年の中で練り上げられ、深く庶民に根付いているのは「徳」や「礼」などではなく、極めて功利的な「道(タオ)」であるように思います。考えてみたら、日本などはお人好しもいい所で「誠意をもって話せば通じる」などと信じていたら、痛い目に遭いそう。

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