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人文・思想 その8「世界は何度終わりになったのか 終末論とは…」


本 世界は一体、何度終わりになったのでしょうか。不謹慎な言い方ですが、「終末予言」は外れても外れてもシブトク現れてきます。人類は滅んでしまいたいのでしょうか? それとも、終末とやらをイベントのように楽しんでいるのでしょうか? 比較的ポピュラーな所でいえば、大ヒット(?)した「ノストラダムスの大予言」で1999年に人類滅亡、「マヤ暦の人類滅亡説」で2012年、あとはいずれは訪れる(筈の)「ヨハネの黙示録のハルマゲドン(アルマゲドン)」…。ハルマゲドンは色々な作品(映画、漫画、小説等)でも書かれ、記憶にまだ新しい所では某元宗教団体が訴えていましたが。ちなみにハルマゲドンとはイスラエルの北にある「地名」で、ヨハネの黙示録にも場所と記されています。「ハルマゲドン=世界の終末」の意では書かれていません。他にも仏教でいう「正法・像法・末法」。日本では平安末期に像法の時代が終わり末法の世に入ったと大騒ぎになったそうで…。まあ、あちらこちらに「終末論」とやらはあるようで。
   
「ノストラダムスの大予言」は予言集「諸世紀(誤訳との説もあり)」の中にある詩を解釈したものが「世界の終末」になった訳で、その「恐怖の大王」なる詩を読んでも、どこに「人類の終末」の意が含まれているのか、よく分かりませんでした。もともとヘブライ語(ノストラダムスはユダヤ教徒からキリスト教徒に強制改宗させられたようですが)では「アナグラム」での表現が多いという事を聞いたことがあります。アナグラムとは簡単に言ってしまえば「言葉遊び」。例えば言葉を並び替えると別の意味になる様な。恐怖の大王の詩でも「アンゴルモア」なる言葉が出てきますが、これを言語で並び替えて「モンゴリア」とかしていますが、並び替えの数は組み合わせによって、どうにでもなるのではないでしょうか。

ノストラダムス自身も曖昧な表現としている事は認めています。当時、「予言」は神の業であり、それを行えば教会と対立しますから、それを避ける為でしょう。ちなみに、極論すれば、ノストラダムスの時代はヨーロッパが大先進エリアだった訳ですから、彼らにとっての世界とはヨーロッパ社会であり、その終末を唱えたのだと解釈してもおかしくはないでしょう。日本は対象外だと思いますけど(一応、日本に関する「大悲劇」の記述らしきものはあります。極東の出来事として)。
   
マヤ歴の終末論にしても、その暦の区切りが2012年であって、マヤ人の思想の中に「歴史は繰り返す」という
言ってみれば特殊でも何でもない考えと絡めて、強引に「人類滅亡」とつなぎ合わせたように感じる人は少なくないと思います。まあ、これまた不謹慎な表現ですが、ノストラダムスに続くブームのようなものでしょう。その多くは、宗教観なるものから生じている訳でしょうが、宗教そのものをコアに据えて考えるとややこしいくなるので、とりあえずそれはタブーとしておいて、つまりはこれまでの「終末論」は事実として全て外れています。ちなみに「富士山大噴火」もけっこう喧伝されてきたと思いますが、富士山はもう何度噴火した事でしょうか。全てが当たっていたら、もう日本に富士山は存在しないし、文化遺産にも指定されなかったでしょう。
   
それでも「終末論」というのは収まりません。今度は「物理的」な根拠により。「巨大隕石の衝突」「地軸の移動(ポールシフト)による気候の大変動」「氷河期の再来」「巨大太陽フレアによる壊滅的な磁気嵐」「火山の大規模噴火」、人の想像力がたくましいのか、「未知のウイルス」「宇宙人の来襲」「偶発的核戦争」などなどを含めたら、もう映画や小説がいくつ創作できるのやら。事実、いくつも作られています。センセーショナル、パニック、煽情的なテーマが商業的・興業的に必要なのは理解できますが、「くるぞ、くるぞ!」と連発されれば、それは「オオカミ少年」で、次第に鈍感になってきます。となれば、ますますそれらはエスカレートして、更に煽情的なものになってくる、と。
  
ちなみに、私はそれらをいちいち「否定」している訳でも、生意気に「論破」したい訳でもありません。むしろ「終末」を当然の事として信じています。どれでもいいのですけど、そう何度も「終末」が来なくとも、終わりは一回で十分です。いずれは間違いなく来るでしょう。それが明日いきなりヒョッコリとやってくるのか、目もくらむような遠い未来にやってくるのかわかりませんが。何十億年というレンジであればいずれ地球という惑星は、恒星である太陽の終焉とともに滅ぶはずです。そこまで人類がもつものやらどうやら…。とにかく、終わりはどこかで必ず来るでしょうし、いくつも必要はなく、一回だけでしょう。余談ですけど、太陽の寿命があと50億年程度ということと、仏教での釈迦牟尼の入滅後、56億数千年後に弥勒菩薩が人々を救済するためにこの世に現れる、という50億年という数字が妙に近く重なっているのは個人的に興味深い事です。たまたまの偶然か…。SFでは弥勒菩薩を、「この世に終わりをもたらすもの」という設定の小説があったように記憶しています
  
で、私の興味は、終末論よりも「もしかしたら人類は滅びたがっているのではないのか?」という点にあります。もしかしたら、そうなのかもしれません。以前テレビで、終末に備えるアメリカの人々を特集した番組をやっていましたが、お約束の地下シェルターから、空気清浄器、家庭内菜園、飲料水の確保、非常食(保存食)の確保などなど。その中で少々ゾッとしたのは、アメリカですからやはり「銃」です。身を守るための銃を、拳銃からライフル、ショットガンまで揃えている方がいました。身を守るといえばそうなんでしょうけど、一体、それで何を(誰を)撃つのでしょうか? 番組に登場した方々は皆「やる気満々」に見えました。終末に対する恐怖より、「自分はそれにこれだけ備えているのだ」という、むしろ高揚感のほうが強いように見えます。

ひとつ、質問してみたい気がしました。「それで、もし一人(一家族)だけ生き残ったとしたら、どうするの?」って、素朴な事を…。私自身の「終末論」に対する考えは、シンプルにひとつだけです。「終末論=再生論」なのだと思います。よく「時代の(社会の)閉塞感」という言葉を耳にしますが、そこから抜け出そうとする(社会的)気分が、「全てを終わりにして、新しく再生する」ための「終末論」に傾いてしまうのでは…。それが人為的に行われると「暴力革命」になるのでしょう。大丈夫ですよ、心配しなくても。いずれ終わりは来ますから。「終末」より「再生」の方にでも頭を使いましょう。できるかどうかは別にして。

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