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科学・テクノロジー その14「関孝和 日本のニュートン? 和算の実力」


本 江戸時代の人に愛読された書物に「塵劫記(じんこうき)」という本があります。何の本かといえば、数学の入門書。数学といっても「日本独自に発展した数学」ですから、「和算」です。もちろん、日本独自といっても元は大陸からの知識にその嚆矢(こうし:物事の始め ※余談ですが「鏑矢、かぶら矢」の意味です。戦いの始めに放つ、音のする矢)はありますが、それから江戸時代以前の日本の数学がどのようになっていたのかは、記録が残っていないので分からないようです。おそらく、七世紀以降にもたらされた数学が「算博士」などと呼ばれる官職により「世襲制」となり、お決まりの「門外不出の秘伝」とかで、極めて閉鎖的なものになってしまった事が原因でしょう。大陸との交流で「面積の計算方法」「ピタゴラスの定理」などは紹介されている筈ですが、それがどうなっていったかは分かっていません。

ところで、Wikipediaで面白い詩を見つけました。万葉集の詩です。「若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國(わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに)」。詩の意味は「新妻の腕枕をし始めて、一夜だって離れられない。とっても愛しているんだもん」ってな感じです。面白いというのは、この詩の「にくくあらなくに」という下の句に「二八十一不在國」という、「くく」の部分に「八十一」という字(万葉仮名)が当てられていることです。はい、「九九=八十一」です。ということは、万葉集が編纂された八世紀から九世紀には、すでに「九九」が日本人に知られていたという事です。万葉集は個人的に好きですが、これは知りませんでした。
    
江戸以前にも、そもそも数学は建築・土木・経理・財務・暦などで必要な物ですから、ある程度のことは専門知識として持っていた筈ですし、江戸時代前までは計算に「算木(さんぎ)」を使っていたようです。算木とは木や竹で作られた棒状のものを縦に置いたり、横に置いたりして計算をする道具ですが、昔、孫子のドラマを見ていた時、他国を攻めるための物資(兵器、兵糧等)の計算をこの算木でやっていたシーンを記憶しています。算盤(そろばん)は日本で十三世紀位に使われ始めたようですが、よくは分かっていないようです。いずれにしても算木を使って、かなり古い時代から色々な計算が行われていたようです。で、「和算」ですが、広義には西洋数学導入までの「日本独自の数学」、狭義には江戸時代のスーパー数学者「関孝和(せきたかかず)」以降の「日本独自の数学」を指します。ここでは、関孝和以降の日本の数学を「和算」とします。

江戸時代に和算が大きく発展したのは、冒頭に書いた「塵劫記(じんこうき)」がきっかけです。塵劫記は数学の入門書でしたが、巻末に「問題」を載せ、その答えを付けないという「遺題」というものを出したところから、その遺題を解き、そして新たな遺題を出す、「遺題継承」という連鎖が始まったそうです。数学者の「挑戦状」のようなものですかね。それが超難解となれば「ポアンカレ予測」とか「リーマン予測」というようなものになっていくのでしょう。この「遺題継承」により、和算で扱われる問題はますます技巧化、複雑化し、実用の域を超えていったようです。
    
ここで、日本のスーパー数学者(和算学者)関孝和の登場です。「遺題継承」から、ついには「複数の未知数」を持つ、いわゆる「多元連立方程式」を必要とする「遺題」が出現し、それまでの和算では手に負えなくなってきます。しかし、関孝和はその解決法(問題の条件を文字によって整理する、筆算の計算法、代数学)を考え出し、日本の和算がより高度な次元へとジャンプします。関孝和は、円周率を小数十一桁まで正確に計算していたそうです。更には十六桁までの数値を独自の数学的手法で導き出しています。更に更に「ベルヌーイ数」の発見等、西洋に先駆けて数々の数学的業績を残しています。ちなみに、円周率を導き出すための「数値的加速法」や「ベルヌーイ数」に関してはとても一言では説明できません(というより、私の数学レベルでは説明しきれません…)。前者は一種の「アルゴリズム」、後者は「流体力学に関する係数」程度で納めます(これらを本当に理解して解説しようとしたら、私、もう一度、中学生くらいから勉強し直さないといけなくなりますので…)。

和算の多様な問題に関しても同様で、その一部をご紹介すると、おなじみの「鶴亀算」に始まって、「からす算」「旅人算」「ネズミ算」「小町算」「流水算」「油わけ算」「嫁入り」「盗人隠」「方陣」等々、その名前から和算の面白さを想像してください。「からす算」などは「999羽のカラスが999の浜で999回鳴いたとすると全部で何回鳴いたことになるでしょうか?」という問題ですが、現代人なら「電卓」を堂々と使いましょう。話を関孝和に戻しますが、タイトルに「日本のニュートン?」と書きましたけど、よく関孝和がニュートンやライプニッツよりも早く微分積分を確立していたといわれていますが、これはハッキリした事実はないそうです。とはいえ、西洋のそれとは別に遠く離れた日本で独自に、それに近い計算を行っていたという事は、「かすっている」訳で、関孝和個人の数学能力には驚愕すべきものがあります。
     
これは個人的な「仮説」なのですが、数学的な発展の原動力として「西洋」と「日本」には大きな違いがあった、と考えています。端的にいえば、「西洋の数学は哲学と一体であり、それは、神の作り上げた世界を解き明かす行為」であり、日本の場合は「塵劫記」による「遺題継承」を発端にして「江戸時代の中産階級が、知的娯楽として難問に挑んだ、極めて遊戯的、ゲーム的な行為」であると思えます。江戸期、和算の問題を解くとそれを木の板に記し、神社に奉納するという習慣(算学奉納)があったようですが、これこそ、まさに「和算」が日常的な知的「たしなみ」であったという証ではないでしょうか。「舞」や「剣」や「習字」を神社へ奉納するのは今の「絵馬」に通じる行為で、それほど「和算」が一般庶民まで浸透していたという事でしょう。

キリスト教を背景とした学問と比べ、日本の場合、江戸時代には「ご公儀」という「新しい物嫌い」の政権はありましたが、とくに宗教的な制約もなく、神道という独特な「ゆるい宗教」の中で、「神なるものの存在」と対峙する苦労も無く、自由に「和算」を「ニュートンが生まれる」以前から楽しみつつ追及していた訳です。実学とかけ離れていたからこそ自由闊達であったのだと思います。明治期に入ると「和算」は、西洋技術の積極的な導入と共に入ってきた「西洋数学」に押されて、政府もそれを後押しします。

「和算」は衰退への道を歩み始めますが、その「和算」が培った一般庶民の教養の高さがその後の日本の近代化に大きく貢献したのは間違いないと思います。毎度のことですが、ヨーロッパから遠く離れた極東(ヨーロッパから見て)の誠に小さな島国の面白さには、尽きるところがありません。

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