テキトー雑学堂 タイトルバナー

科学・テクノロジー その25「人工知能は何のために必要? 人工意識はあり得るのか?」


本 疑問というものは、誠に子供のように素朴なもので、いくつになろうとも変わらないものだと思います。そのもとにあるのは「好奇心」。ハスッパに言ってしまえば「宇宙の構造がどうであろうと、俺の生活には関係ない」ということも確かに否定はできないのですが、「知りたい」という衝動は如何とも抑えがたいものです。そして、その好奇心のネタは舞いあがる埃のように捉えがたく、また無数に漂い広がっていくのです。現実という皮膚感覚で捉えられる世界に生きていながら、何億年前の生命の起源に思いを馳せてしまう…。話が逸れるかもしれませんが、本居宣長は「疑問は疑問の連鎖を起こす」としてそれを排し、「日本人特有の感じる力」、即ち「大和心(魂)」を人間(日本人)の感受性のもとに据えていますが、そうは言っても「疑問」はその素朴さ故に連鎖し、星空を情緒的に捉えながらも、「この宇宙とはどのようにして生まれたのか…」などと脳味噌が動いてしまうのです。つまり、「疑問」さえも情緒と捉えられるのではないでしょうか。「感じる心」です。本居宣長が排しているのは「議論のための議論」でしょう。

といきなり、「何のこっちゃ」ってな思いから入ってしまいましたが、私は「科学が永遠に答えを出せないもの」の代表に「意識」というものがあると考えています。その「意識」の土台となるものが「知能」となるのでしょう。で、以前から感じていた疑問を、毎度お決まりの「破綻承知の介」で改めて考えてみようと思います。まず、「意識」なるものを考える前に「知能」について考えてみます。愛用の新解さん(国語辞典)を見ると「頭の働き。知恵の程度」とあります。分かるような分からないような…。さすがの新解さんでも歯が立たなかった言葉であるようです。私は「知能」を勝手に「考える力」であるとします。例えば将棋ですが、これはとんでもなく「考える力」を要するゲームだと思います。ちなみに、私は将棋が下手ですけど、それで「頭が悪い」と言われるとムカッとします。余談でした。この将棋に「人工知能」なるものが挑み、似たようなゲームであるチェスでは「人間に勝つ」ことをクリアしたようですが、将棋の場合はまだ人間様が頑張っているようです。

この、将棋で「人間対人工知能(Artificial Intelligence; AI)」の勝負は新聞ネタで見かけますが、私は非常に疑問で、「人間対人間」の勝負だからこそ「将棋」ではないか、と思ってしまうのですが、まあ、人工知能開発の1プロセスであると考えれば、それはそれだけのことなのでしょう。将棋はゲームですからルールがあります。その中で知力を尽くして考えるのでしょうが、ルールがあるということは、飛車がいきなり斜めには動けません。その制約の中で闘われた「棋譜」をデータベースとして取り込み、次の一手を考える「人工知能」というものは、理解しやすいのですが、ルールという制約が曖昧な「芸術」という分野になると、この「人工知能」は何をやるのでしょうか? 人工(機械)が生み出したアートに人が感動するのでしょうか? そこはかなりの疑問があります。もし仮に、物凄い人工知能アートが生まれたとしても、それなら、人間で十分ではないのでしょうか。人間ほど芸術的に破綻(良い意味で)できるとしたら、それは機械なわけですから「壊れた」とも考えられます。

それよりも、そもそも「人工知能」なんて、何で必要なのか? 基本は「ロボット」という中で機能させていくものなのでしょうが、それは「人間の代わりに働かせる」ということでしょう。であれば、それはある程度実現していると思いますけど。例えば、危険な作業現場(原発など)で働かせるにしても、リモートコントロールではダメなんでしょうか? 例えば「介護」なんて仕事をロボットにやらせるというのは、ロジックとして世界中が「被介護」生活者で溢れる未来を前提にしているのでしょうか。歳を取ったら、ロボットの世話になるとか…。これは寒々とした世界です。人は最後に、「人の世界」から離れて、機械の世界に行くと云う三文SFの世界となるのでしょうか。「介護」は本質的に「社会問題」として捉えるべきです。戦争で、ロボット兵士同士が「殺し合い(壊し合い)」をする戦争なんてのが起きるのでしょうか? ロボットに働かさせて人間は楽に生きていく世界を実現するのでしょうか?

最近「人工知能が人間を滅ぼす」なんて論が話題になっていますが、私は「人工知能なんて、そもそも必要ない」と考えています。機械である以上、アクシデントからはほぼ逃れられないでしょう。コンピュータがそうです。トラブルを起こさない機械はありません。もちろん、人間もトラブル、アクシデントを起こします。それを超えるものを作ろうというのなら「人工知能」ではなく「瑕疵も矛盾も無い完全な思考マシン」を作ろうとしているのでしょうか。人間自身が「不完全(完全とは言えない)」なのに、そのようなものが作れるのでしょうか? 三文SFでは「支配しているつもり」が「支配される」となります。「知能」は好奇心というエンジンで学習を始めるのでしょう。しかし、その学習を別の表現で云えば「知識欲」です。「人工知能」の完成には「欲」というものを埋め込まなくてはならないでしょう。これって、恐ろしい事ではないでしょうか。

で、「人工知能(Artificial Intelligence; AI)」があるのだから、今度は「人工意識」かな、なんて思っていたら、やっぱりそんな研究分野があるようです。「人工意識(Artificial Consciousness:AC)」。ここまで来ると、あの、核兵器を開発して「これほど強力な兵器ができれば、もはや、それを使うことなど考えられず、戦争が無くなる」と考えたオッペンハイマーの大矛盾と同じことが起きそうな気がします。「欲を持った人工知能が、人工意識によって、ある選択をする」。それがどれほど恐ろしい事態か想像もつきません。ちなみに「意識」というものを新解さん(国語辞典)でみてみると「自分が今何をしているか、どういう状況に置かれているのかが、自分でハッキリ分かる心の状態」であるとか。ここでも私の「意識」に対する定義をしてみます。「意識」とは「意思決定する力」です。「知能」という「考える力」をもって「意識」という「意思決定する力」へと至る、これが人間を「知的生命体」たらしめている力であると考えます。

だから、「人工知能」だとか「人工意識」だとかじゃなくて、「人間」でいいじゃないですか。もっとも、その人間の「知能・意識」の不可思議さを研究するプロセスとしての「人工知能・人工意識」研究というのなら、私もワクワクする思いがします。しかし、機械の成果物としての「人工人間(人工脳?)」を作ることであるのなら、それは畢竟、「人間の自己疎外」につながるもの、その要素を絶対に否定できないと考えます。これは私のイメージなのですが、「人工知能・人工意識」もおそらくは電子回路の上にできるのではなく、それは生物と同じ「有機物」の構造の中に生まれるように思えます。それは何でしょうか? 申し訳ないですけど、それはあの「フランケンシュタイン」じゃないですか。あの物語が人間に突きつけた問題は決して軽くないと思います。フランケンシュタインを「人造人間」と呼びますが、それは「人間?」、それとも有機物(死体)を使った「機械?」。

繰り返しになりますが、必要性という事であれば「人工知能」も「人工意識」も不要でしょう。「人間」がいるのですから、もう世界中に「知能・意識」はあるわけです。私は特定の宗教・思想、その団体に所属する者ではありません。とはいえ、無神論者ではありません。さらには価値観を真っ二つにして「これは白」「これは黒」という二分法、一般に言われる二元論を嫌います。その立場から思うことは、人間の生命・存在に関わるようなことに於いては「科学」はその領域に入るべきものではない、と考えています。「人工知能」や「人工意識」、「遺伝子学」なども純粋学問に留め置き、「遺伝子工学」などへ発展させるべきではないとの思いは強く持っています。

その領域は、適切な表現ではないかもしれませんが「知ること能わざる」であり、確か妙法蓮華経(法華経)、孫子、荘子などに散見される言葉ですが、これを表記すれば「不能知」だったと思います。「分からない・知ることができない」という意味ではなく、「知るべきことではない・知ることではない」と私流に解釈しています。つまり「人智の及ぶところではない」と。自身はSF好きですから、「人工知能」という言葉は昔から知っていますが、この言葉と「タイムパラドックス」は非常に苦手です。物語にすると、どうにも最初から破綻しているように思えるので。H・G・ウェルズの古典的名作「タイムマシン」はファンタジーとして楽しみます。

科学・テクノロジー 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.