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科学・テクノロジー その26「人間原理 宇宙は人間のためにあるのか… 人間は…」


本 尻切れトンボのようなテーマを掲げましたが、その後に続くのは「人間は宇宙のためにあるのか」という言葉です。どっちでもいいような感じもしますが、初めてこの「人間原理」という宇宙論に出会った時、私はそれを純粋な学問としてよりも「SF」のように感じました。多くの人がそうではないかと勝手に思っているのですが…。理数系には破綻気味の私の頭でこの「人間原理」を捉えようとすると、そこに物理的な知識など用いずに(用い得ない)、とにかく「妄想力」で挑むしかないのです。

お約束的な説明として、この「人間原理」なるものをできる限り簡単に(自分に分からせるように)言い切ってしまえば、「この宇宙は、どの物理的な定数をわずかに変えても人類は生まれ得ず、つまりは、全てが人類(知的生命体)を生み出すために出来上がっている」、「この宇宙は、観測者がいてこそ初めて存在する。人類(知的生命)という観測者を生み出し、そして、宇宙は存在する」と云う事になります。宇宙論など全く興味が無い人には、当然、この論にも全く興味が無いでしょうね(当たり前か…)。先のふたつの説明をもっと縮めれば「宇宙は人間を生み出すために生まれた」、「人間がいるから宇宙はある」となりますが、こうなると、何やら「哲学」か「宗教」めいた世界に行きそうです。ハイ、多分、そうなります。

この「人間原理」宇宙論の源にはあのディラックがいるのです。エヴァンゲリオンのファンの方なら、あの主人公の碇シンジがこの「ディラックの海」に取り込まれてしまうシーンは覚えておいでだと思います。また、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」にも現れてきます。「ディラックの海」を無責任承知で云えば「無限のエネルギーに満たされた空間」。なんで、そんなものがという方はディラックの「大数仮説」を調べてください(無責任?)。 この仮説は実証性がないということで科学の歴史から消えかけていたのですが、物理学者のディッケが蒸し返し(蘇らせ)、宇宙に対する「観測者の存在の不思議」という「観測選択効果」、つまり先の強引な説明で言えば「人間がいるから宇宙はある」という、限定的な「弱い人間原理」という宇宙と人間の関わりを唱えました。実際に「人間原理」という言葉を最初に唱えたのは物理学者のカーターであるようですが、「観測者としての人間」を生み出すことによって宇宙は存在すると考え、これが「強い人間原理」で、先の強引な説明で言えば「宇宙は人間を生み出すために生まれた」となります。

このような話に興味のない人はもう読んではいないでしょうね。しかし、私の「妄想力」は更に続きます(破綻するまで)。ここからが面白いのです(ホンマか…)。「観測者」と「宇宙」の関係について、量子力学の「事象は観測されることによって、初めて存在する」という考え方があります。これに対するアインシュタインの言葉が「誰も月を見ていない時に月はないのか。月はそこにある」です。彼はインドの詩人タゴールともそうしたやり取りをしています。ムチャクチャ簡単に言ってしまえば、タゴールは「宇宙は全て人間の心象の中に存在する」と言い、アインシュタインは「人間を超えた客観性が存在する」と言います。タゴール曰く、「月を見る者がそれを原子の塊と見るか、神秘と見るか」。ここがまさに科学者と詩人の分かれ道。超ハイブリッドな思索へ通じます。

ちなみに、「人間原理」は観測者である人間と宇宙との関わりの中で論じられていますから、そこに「構造的な宇宙の創造主」としての存在、つまり神は導き出されません。故に私(理数系破綻者)は「哲学」によるアプローチを試みる楽しさを強烈に感じます。とはいえ、哲学と数学はお友達なのです。というより、数学は哲学のご先祖にあたるといっても良いかと…。では、サッサとアプローチして見ろとケツを蹴っ飛ばされそうなので、速攻で行きます。デカルトとカントです。デカルトの「我思う故に我あり」と、カントの「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」という言葉を対比させてみます。まあ、ドイツ観念論のコアにある「私がいるから、世界がある」という考えをスパイスとして降りかければ、デカルトに対してカントは反論しているとは思えず、先の「弱い人間原理」と「強い人間原理」の関係に似ているように思えるのです。で、ドイツ観念論は、強引とも思えますが、結局は「人間(観測者)」と「対象(宇宙)」の関わりに関して、両者を統合した「人間原理」という、「人間(観測者)」を主とした「宇宙観」を示しているのだと思えます。タゴールもそこに一票(多分)。

もうとっくに破綻しているようにも感じますが、「人間原理」の「人間」を「観測者」と言うよりも、「意識」として置き換えれば、確かにその「意識」が事象を眺め、宇宙を様々な形で認識しています。「人間原理」はもちろん「科学的思考の産物」ですが、科学を「方法」とすれば、それは自ずとあらゆる「確率」の岐路の世界に人の認識を引きずり込みます。そうなると、アインシュタインの言う「人間を超えた客観性」などあり得るのかと、不遜にも思ってしまいます。「哲学」は一見「真理」を求めているように見えますが、私はそうは思いません。「哲学=考え方の体系」であり、それはどこに収斂される訳でもなく、帰納する訳でもない、様々に絡んで、それこそまさに「宇宙」を形成します。確かに、人間と言う「知的生命=意識」が無ければ、それは生まれません。「人間が客観的に知り得ないものは存在しない」ということを云っているのでは決してありません。「意識が眺めているものが宇宙」であるということを、この「人間原理」宇宙論から強く感じるのです。

とっくに他のサイトへ飛んで行かれた方も相当いらっしゃるでしょうが、私自身の考えのコアにあるのは、「定常宇宙論(安定して変わらない宇宙)」であれば「人間原理」など生まれてこなかったのではないか、ということと、「ビッグバン宇宙論」であれば、ビッグバンゼロ秒直後は全ての物質も意識も同じ一点にあり、それは変わらず膨張を続けている訳で、そこに足し算も引き算も無いとすれば、それは「物質の進化(?)」と並行して、「意識の進化(?)」へと向かうものだという考えです。「意識」が客観性に支配されるとは考え難い。

ハイ、頭が泡立ってきましたのでこの辺にしますが、「人間原理」とは「意識の進化」としての「宇宙(物質)」との関わりであり、最終的には「人間」にとどまらず、宇宙そのものが「意識」へと進化するのでは…。その時の宇宙の様はどのようになっているのか。筒井康隆の小説の中に「地球が意識を持って目覚める」というシーンがありましたが、「人間原理」とはそこへ向かう宇宙論、ではなかろうかと考える次第で…。

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