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科学・テクノロジー その27「続 人間原理 時間とは本当に存在するのか…」


本 前回に「人間原理」宇宙論なるものについて書きましたが、その後にまたツラツラと考えていたら、その中に「時間のことを書いていないではないか」、とふと思い、脳味噌の「妄想エンジン」がまた動き始めました。しかし、年代物のエンジンですから、唸りをあげて、というわけにはいかず、プスンプスンとバランスの悪い回転を始め出します。この「時間」というものを理数系には破綻しているこの頭で、考えてみたくなりました。さてどうなる事やら、と他人事のように思いつつ、行きます。まず、アプローチのとっかかりですけど、前回にも書いた、量子力学の「事象は観測されることによって、初めて存在する」という考え方を懐に忍ばせて、強引にやってみます。

まず、私なりの文化系的「時間の定義」ですが、これは単純明解に「変化」としましょう。しかも、それは不可逆的なものです。兄弟サイトの「不思議 怖い 変を普通に考える」の「不思議その53」で、今という瞬間は「過去なのか未来」なのか、というテーマで書いたことですが、物理の世界では「時空連続体」というものが存在し、「時間」と「空間」は不可分のものとして扱われますけど、それはアインシュタインの相対性理論での「時間と空間をそれぞれの座標で分離することができない」という理論上の事情から来るもので、ニュートン力学では空間座標(位置)と時間座標(時刻)は独立したものとして扱われます。空間の中に時間という成分は含まれないのです。

で、便宜上(ご都合主義?)、私はニュートン力学の立場を取ります。理由は分かりやすく、「時空連続体」の世界では、「時間」というものだけを取り出して考えられないからです。まあ、あくまで文化系的アプローチですから、言葉による定義として「時間とは、事象の変化による不可逆的な観測により現されるパラメーター(媒介変数)」。つまり、朝起きてお昼に時計を見れば当然、朝とは違った位置に長針短針があると云う事です。起きた時からの変化が数値として一方向(不可逆的)に進んでいるのが時間です。「時間」は時計を見た時に「決定」されます。「5時間経ったのか」というのが人の認識する時間です。それはカレンダーの「年・月・日」も同じこと。

何が言いたいかというと、要は「観察(観測)するものによって、その時間は決定される」と云う事です。ちなみにその「不可逆性」を現す概念に「時間の矢」という言葉があります。つまり、時間とはエネルギーであり矢のように放たれるとそのエネルギーは一方向に解放されて拡散し、熱力学の第二法則、エントロピーの増大により「元に戻る事はない」、という事です。では、時計が壊れて止まっていたら「時間は進まないのか」という突っ込みはお控えください。時間をエネルギーであると考えれば、では、一体どこから生み出されているのでしょうか? ここでまた量子力学的発想が生まれてきます。量子力学では「完全なエネルギー0の状態は存在しない」とされています。よく耳にする「ゆらぎ」というやつですね。これが、時間にも応用できるようで、時間にも「ゆらぎ」が生じ、そこから生まれたエネルギーは砂粒が降り注ぐように積もって行き、滞留する。これが「過去」です。「ゆらぎ」から生じる訳ですから、生まれ続けて「未来」へ向かって積もって行く。故に「不可逆」であるということです。全てはまだ完全に証明されていない学説ですが。

この文章を読まれている方(文系。理数系はとっくに他のサイトへ飛んでるでしょう)もそうかもしれませんが、私の頭も、古びたエンジンがオーバーレブ寸前で、メーターはとっくにレッドゾーンへ入っています。焼き付きそうなので、話を最初に戻します。量子力学でいう「事象は観測されることによって、初めて存在する」から考えれば、観測者、つまり人間という知的生命が皆無の宇宙では、「時間は存在しない」と云う事になります。となれば、今まで考えてきたことは、「なんのこっちゃ」となります。全てがチャンチャン♪です。しかしながら、人間という観測者は存在し、時計やカレンダーに従って日々の生活を刻んでいます。さて、どっちなのでしょうか? 無責任覚悟で言えば、冒頭で私流に(勝手に)定義した「時間」というものが、おそらく「時間」というものに対しての大多数の認識であると思います。故に「時間は存在する」と。

ここで終わりたい所ですが、それでは面白くありません。もう一度、オーバーヒート寸前のエンジンのキーを回してみます。かろうじて動きました…。「誰も自分の正確な位置を捉える事はできない」といったのはガリレオですが、それは相対性理論にまで発展していきます。ニュートン力学ではなく、あえてそこから考えてみると、時間は「観測者の状態に拠って変化する」、です。有名な所では、高速に近い速度で進む物体の時間は遅くなる、とか、止まった者が動いている者を見る場合、動いている者の時間は遅くなる、とかいったものがあります。であれば、時間はまさに相対的であり、「絶対軸(目盛)」としての「時間」というものは存在しないことになります。故に相対論では「空間」と「時間」を分離することができません。ではこれを両方混ぜ合わせて「お餅」のようにこねてみましょう。位相幾何学的には、それが「丸」だろうが「四角」だろうが「棒」だろうが同じものです。その形状が絶えず「変化」したとしても、同じものです。であれば、その中で動いている「時間」も同じ。お餅が同じ形で「変化」せずにじっとしていても同じものです。では、お供え餅の中にはその時「時間」は存在しないのか?

つまり、そこでは「空間」も「時間」も正確には捉えきれないのです。「時間」とはかように絶対的なものではなく、確かに「観測者によって存在する」パラメーター(媒介変数)に過ぎないということです。余談ですが、光を互いに干渉させて光にわずかな隙間を作る実験が成功しているようです。しかし、それは人間が認識など到底できない隙間ですが、その隙間に「時間」というものがあるのでしょうか? 人間という観測者は「光」によって事象を認識します。では、その光が途切れている瞬間の「時間」とは…。

ハイ、もう白旗を上げたい状態ですが、最後のアクセルを踏み込んで、壁に激突覚悟で、イギリスの哲学者であり数学者でもあるバートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」にすがりつきましょう。これは「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説で、要は懐疑主義的な思考実験ですね。これは、「過去」というものを完全に立証することは不可能である、という考えから成り立っているようです。例え、過去の記憶、知識の蓄積というもので「過去」を立証しようとしても、それらが「現在」として5分前にいきなり現れたという仮説を否定できないというもので、これは完全に哲学的な「時間」に対するアプローチですね。事実、「時間というものは存在しない」と断言する学者もいます。少なからず…。こうなると古典的な物理学の鉄板である「因果律」も吹き飛びます。異なった時間の二つの事象に関係性を見出すのは経験によるもので、それを実証することはできない、とか…。もう、ガス欠寸前…。カントの「時間は空間のメタファー」と捉える考え方もありで…、あ、エンストです…。

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