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歴史・地理 その11「応仁の乱 戦う理由が誰にも良く分からない大乱」


本 応仁元年(1467年)に、まさに突如としか言いようのない中で起こった「応仁の乱(または応仁・文明の乱)」は、瞬く間にその戦火を広げ、文明九年(1477年)までの十年間に大量の殺戮と昼夜を分かたずに燃えさかる火、略奪、破壊で、京の都を灰燼と化した、日本史上最初の武装勢力による未曾有の大乱です。その歴史的意義(?)と言えば、その後、15世紀から16世紀まで続く「元亀天正の戦国時代」の幕を開けたという位でしょうか…。

結果的には、一定の秩序の中にあった室町幕府(政権)下での守護大名による各地の秩序を「下剋上」の世に陥れ、日本人が大好きである「個性豊かな戦国武将」を数々生み出し、やがては徳川家康による三百年近くの「太平の世」へと導いた(?)きっかけとなった訳ですけど…。実は、個人的な事で恐縮ですが、子供のころから歴史は好きだったのですけど、この「応仁の乱」は「なんで、ここまでの大乱が起きたのか?」良く分かりませんでした。一応は足利将軍の世継ぎ問題がきっかけであった位は教科書で知る事ができましたが、何故、十年もの長き間、京の都(当時の日本の中心)を燃やし続け、破壊し続けたのか、モヤモヤとしたままでした。まさに「いよいよむなし(1467年)、応仁の乱」でした。
  
すでにいっぱしのオヤジ予備軍となっていた1994年のNHK大河ドラマ「花の乱」が始まるころには、何となくその理由が腑に落ちる程度に分かるようにはなっていましたが…。ちなみに、この「花の乱」というドラマ自体は室町幕府将軍足利義政の妻、日野富子を悪役(政治を顧みぬ優柔不断な夫、将軍足利義政に変わって権勢を振るった)の主役として、けっこうな脚色・演出がされたドラマであったと記憶しています(余談ですけど、大河ドラマにはあまり興味ないのですが、1年もやるなんて、長すぎますよ。だから冗長な脚色・演出が必要になるのでは…)。「応仁の乱」自体に、その騒乱の規模にしては歴史上「京の都が灰燼に帰した」以外、何の歴史的ヒーローも「惹き付けられる」ストーリーもありません。不謹慎ながら、ただひたすら「ド派手な大乱」というだけです。と、それを結論としてしまっては話が進みませんので、まずそもそもの「将軍の世継ぎ問題」のややこしさから始めますと、ホント、ホンのちょっとしたことで「ここまでドンパチ始めるかよ」と言いたくなるような展開です。

大乱の要因の一人である大物、山名宗全(やまなそうぜん:1404年~1473年)でさえ、途中で「何のために戦っているのか」分からなくなり、厭戦感のあまり自決しかけたという逸話があります。その真偽の程は別にして、この戦いはまさに「振袖大火(明暦の大火:寺で供養しようと火を点けた振袖が原因で江戸のほとんどが焼失。江戸時代最大の火災。放火説もあり)」のように、ちょっとした事から十年かけて京の都を灰燼と化するまでの間、もう「戦いの意味」すら分からなくなっているのに「戦い続け」、被害が雪だるまのようにドンドンとデカくなり、誰も止められず、何の益にもならなかったという「えー、バカバカしい一説を…」です。最後は「和議」の形で収束しますが、「おあとがよろしいようで…」ってな感じで、その時の当事者とは関係なく、また新たな「戦国」の世に突っ込んでいきます。まあ、歴史的に見れば結果として「旧世界の価値観を壊し、新たな世へとつなげた」意義を持つ、とも取れなくはないですけど…。
   
とにかく、この大乱は室町幕府将軍足利義政とその妻である日野富子の間に早々と子が生まれていて、その子が将軍家を継ぐという話であったなら、起こらなかったでしょう(世の中がズッと平和であったとは言い切れませんが…)。その時代の背景としては幕府内の権力闘争(政権の末期には必ず起こる求心力の喪失)、頻発する土一揆、地侍の台頭(守護大名の私的勢力の拡大)等、まあ、とにかく世情が不安だった訳で、将軍である足利義政もあまり政治にはやる気が無かったようです。しかし彼は趣味人としてはそこそこであったようで、慈照寺銀閣を代表とする「東山文化(貴族的な足利義満の鹿苑寺金閣を代表とする北山文化とは異なり、幽玄、わびさびにも通じ、書院造りを生み出した、その後の日本文化の基、のような様式)」の中心的人物でしたが、義政も早く隠居して自分の趣味に没頭したかったのか、日野富子との間に子ができるのを諦め(一度できたが、生後間もなく死んでしまう)、弟の義視(すでに将軍候補では無くなり出家)に無理やり将軍職を譲ろうとします。それを固辞する義視を「頼むよぉぉぉぉ」ってな感じで、無理やり後継者に据えます。

これで、収まればまだよかったものを、何ともややこしい事に、その後日野富子が懐妊し、男児(後の足利義尚)を生みます。日野富子は側室たちとの陰険な闘いにも勝ち、おそらく亭主である義政に対しても「こりゃ駄目だ」と見限り、当然の如く自分の息子に次の将軍職を継がせようとします。が、嫌々ではあったものの、既に将軍後継者としてのステイタスを持つ義視は、いったんその地位に立った以上、簡単にそれを廃せるものではありません。結局、よくある展開で、力を持つ勢力がそれぞれの利害関係で「お約束」のように二つに分かれます。「義尚側」には、実力者「山名宗全(西軍)」をリーダーに、「義視側」には管領(かんれい:将軍に次ぐ役職)である「細川勝元(東軍)」をリーダーとして二つの陣営に分かれます。さあ、いよいよですが、山名宗全と細川勝元は姻戚関係にあり、もともとは仲が良かったので、要はふたりの幕府内での覇権争いの様相を呈し始め、いきなり「戦争!」ではなく、二人の睨み合いから始まりました。この時点で、本来的な「将軍職継承問題」の大義名分がただの勢力争いに様変わりし始めます(応仁の乱、ドタバタ劇の始まり…)。が、その「戦争のきっかけ」が思わぬところから現れます。
   
簡単に説明すれば、細川以外にも幕府で力を持つ管領家である斯波・畠山(細川と合わせて三管領家)の家でも同じような跡目相続争いが起きます。その調停に将軍が乗り出したことで更に揉めてしまい、さあ、応仁の乱、スタートです。最初の段階では山名宗全の西軍が勝利し、義尚が将軍職継承者となりますが、ここで終わらないのがこの争いの訳の分からない所。緒戦では東軍が反撃に出てやや盛り返しますが、やがて西軍に西国の実力者「大内正弘」が大軍をもって加勢します。これで形勢は西軍に大きく傾き、なんと、相手方である足利義視を西軍が「こっちにくれば」と抱き込みにかかります。ハイ、もう訳がわかりません。

これで、最初の「将軍職継承問題」から自体は各地の実力者をリーダーとした武装勢力の覇権争いにステージが変わります。各地の実力者も長引いてしまった戦に自分の本拠地をお留守にしてしまった事で、そちらの方でも一揆などの問題が発生してきます。慌てて帰る者、新たに「勝ち馬に乗り」勢力を広げたい者たちが入れ替わり立ち代わりでグチャグチャの合従連衡を繰り返し、大義名分などもうすでになく、ひたすらに戦で京の都を焼き続けます。もうどれが東軍で、誰が西軍やら訳が分からなくなり、皆「何のために誰と戦っているか、敵は誰で、味方は誰?」ってな状態となりますが、まさに「戦争を始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい」という言葉通り、そんな状態が十年も続く訳です。

やがて、山名宗全も細川勝元も相次いで病死し、その息子たちの代でようやく「和睦」ということで大乱は収束しましたが、いったい「和睦」って、お互いに「何の主張」があっての事なのでしょうか…。「オヤジが死んだからもうやめようョ」程度なのか。「誰が何を得て、誰が何を失った」のかも「誰が勝者で誰が敗者なのか」も分からずに…。足利義尚が将軍職には就きますが、若くして亡くなり、オヤジの義政、対立していた義視も相次いで無くなり、日野富子は細川と組んでその後も幕府を牛耳りますが、後世の評価は「悪役」。この応仁の乱を描いた軍記物語「応仁記」も、「あそこはでっち上げ」だの「それは謀略だ」のと、つまりは応仁の乱という歴史的事実はあるものの、「よう分からん…」というのが事実。

「応仁の乱」とは、日本史上最大のドタバタ劇であり、悲劇でしょう。そして時代は戦国時代へ…。規模はさておき、こんな展開、身の回りにも嫌になるくらい転がっていませんか…?

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