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歴史・地理 その12「魔王 織田信長の思い描いた国の形とは…?」


本 歴史上のスーパースター織田信長の子細に関して書いても、それは他にいくらでも優れた資料があると思います。ここでは、私の一番の関心事(疑問でもありますが)、魔王、覇王、織田信長は本能寺の変がなければ、この国で初めての「独裁者」となったのではないかと考えていることを書いてみたいと思います。歴史の "if" は「禁じ手」ではなく、この上なく楽しい想像なのです。それまでの平清盛にしても、源頼朝、足利尊氏にしても、天下をほぼ手中に収めるところまではいきましたが、その後の国作りは「武士の世」を迎えたとはいえ、旧来の権威の上に成り立つ国家でしかなかったと思います。中国の英雄たちもそうです。覇王となり、中原を制した者は同じような王朝を立て、「天意」を常に大義名分として、代々王朝を築き上げてきましたが、その国の形がそれほど変わっているとは思えません。近代中国でさえ、毛沢東が覇権を取り、建国し、鄧小平がその国の形を変えましたが、基本形は一党独裁で、孫文の辛亥革命によってできた中華民国が一時的な例外とすれば、それほど変わっていないと考えます。

日本の事に戻りますが、この国の歴史で国の体制が大きく変わった流れは、大化の改新で中央集権の基礎ができ、平清盛以降、武士が台頭し始め、徳川家康に至って中央集権は崩れ、封土建国制(地方分権)となり、やがて三〇〇年近くが立って明治維新が起こり、中央主権が復活し、近代化への道を進みますが、その間、日本では絶対無二の「独裁者」が現れた事は一度もありません。という事は、この国も基本的な形は変わっていない、という事です。極論は承知の上です。民主主義や人権思想の高まりは全世界的なもので、国の形とは次元の違うものと考えます。
    
つまり、「天下を取る」というのは「覇王」となる事で、武力で対抗勢力を駆逐し、No.1になるところまでは(誤解を恐れずに言うなら)ゲームのようなもので、その時に一番強いものが天下を取ります。しかし、問題なのはその後です。旧来の国の形のトップになり替わるだけならその「国の形」は依然として同じです。肝心なのは、天下を取った人間がその国をどのように「治めよう」としていたか、という「思い描いていた国の形」です。そもそもがそれを実現するために血生臭い戦を続けて天下取りのゲームで勝ち続けてきた筈ですから。この点からいくと、豊臣秀吉は、天下を取ったのに、その後の国作りに「特段の構想」は無かったようですね。地位は既存権威の「関白」だし、旧来的な恩賞で武将たちを惹き付ける為、全く無謀な「朝鮮征伐」まで行ってしまいましたから。一応、建前で「唐国(からくに:当時の中国、明)へ攻め入る」戦争としていたようですが、では秀吉が「軍事国家」を目指していたのかと言えばそのような痕跡はなく、ただ「戦国武将連合」のヘッドに立っていただけ、という感があります。「帝国主義」を謳っていた訳でもありません。結局はその死とともに滅び、徳川の世となります。徳川家康は「元和偃武(げんなえんぶ):武を収める、やめる」と明確なコンセプトを持ち、封土建国制による国作りと、武士(戦闘員)による「非武装国家」という世界史上、稀な国家を作り上げましたが。しかも経済は「米本位制」…。世界に唯一の経済システムです。
     
前置きが冗長になりましたが、織田信長はどのような「国の形」を思い描いていたのでしょうか? 天下を取る寸前で命を落としましたから、想像するしかありません。私は、キーワードは「明智光秀」と「安土城」にあると考えます。明智光秀は土岐源氏の流れを汲み、「信長公記」にも朝廷との関わりがあったとされています。この時代のおおよその事は記録が焼けるか、残ったものも恣意的で、話半分以下に聞いた方が無難ですが、光秀は血筋も良く、文武に秀でた人物であったようです。唐突に言えば、彼は古典への造詣も深く、旧将軍家、朝廷に対する真摯な姿勢を持っていた人物だったといえるのではないでしょうか。つまり、アンシャンレジーム側のインテリジェンスを持っていた人物であると。それが戦国の世の流れで織田信長の優秀な武将の地位を得ますが、恐らく、信長の徹底した「旧勢力」の排除と次第に相容れなくなってきたのではないかと思います。織田信長は私の中で、中国三国志の曹操とイメージがダブります。形骸化した朝廷(後漢)を見切り、新しい時代を作るための志を持っていた。既存の権威や価値観などは「クソ喰らえ!」ってな気概を持っていたのでしょう。

故に信長は自らを「第六天魔王(欲望の神)」と名乗り、「天下布武」の印を使い始めたのは、要はまず既存勢力、対抗勢力を駆逐するのは「武力」であると公言しただけでしょう。「来るなら来い!」と。それは方法論であり、まだ彼の最終的なものを暗示すらもしてはいないでしょう。そこら辺までは明智光秀も信長の一武将で問題なかったのでしょうけど、安土城を建てるに至って、ある疑念を抱き始めたのでは…。この時代、確かまだ天守閣は一般的ではなく、山の上に作る「山城」が実践的であったと思いますが、安土城はその中でも色々な面で群を抜いていたようです。

如何せん、残っていませんから謎なのですけど、想像するに、当時は「築城」といえば軍事で、実用的なものである筈なのに、荘厳華麗で、一説には大衆との謁見のためのステージまであったそうで、軍事というより、聡明な光秀は「象徴的な何か」の目的をそこに感じたのではないでしょうか。ちなみに、安土城が焼け落ちた理由(光秀説、光秀の部下説、盗賊説、もらい火事説等)は未だ断定ができません。光秀が直接焼いたのではなさそうです(山崎の戦いの後=光秀の死後、焼失しています)が、事実、痕跡もないほどに焼け落ちて、現代でも再現できないほどに消え去っています。あってはならないものだったのか…。
     
その「象徴的な何か」とは、ズバリ「権威」です。恐らく信長は「楽市楽座」にもみられるように、経済にも相当に通じていたのではないかと考えます。それが「天下布武」の裏付けであり、いくら京に近かったとはいえ、あれほどの軍事力を、元々は美濃の一地方武将が持ち得ることは無いと思います。いつの時代も「戦争=経済」ですから。信長は武力による「権力」だけでなく「権威」に対しても野望(?)を持っていたのでは? つまり、「権力」は手に入れられるが、国を治めるための正当性である「権威」を、どのように得るかを考えていたのではないでしょうか?「社会・政治その6」に書きましたが、「権威」とは「他の何ものとも代えがたく、万人をひれ伏せさせる(崇めさせる)力」であり、「権力」とは「万人を支配する力」。では、日本の「権威」とはどこにあったのか? ズバリ、京の御所、「帝」です。信長はもしかしたらその「権威」に手を出すかもしれない。古典的な教養と価値観をもつ明智光秀にはそう感じられたのかもしれません。

「安土城」は京から「帝」を迎えるために作ったのではないかとの説もあります。つまり、どのような形であれ、自分の手元に権力と権威を収め、あえて言葉にするなら「皇帝(英:Emperor、独:Kaiser)」を目指していたのではないでしょうか。信長の周辺には南蛮の宣教師らがおり、その概念を持っていたとしても不思議はありません。明智光秀の「本能寺の変」はその「畏れ多い事」を命がけで阻止しようと思った行動ではないかと考えます。信長も、自分の支配下の武将にそのような古典的非合理的な価値観を持つ者がいるとは思わず、光秀の行動にノーマークだったのでは? 本能寺の変「怨恨説」はあまりに予定調和の短絡で、現実味がありません。どうにも、光秀の行動は「差し違え」の戦いであったように思えるのです。

もし信長がその野望(?)である、「権力・権威」を手にして、皇帝の地位にでもなっていたら、恐らく、恐らくですよ…、日本はアジア支配を目指す、「貿易経済大国」「海洋軍事国家」を目指したのではないでしょうか。ちなみに、日本で初めて船に大砲を載せて撃ったのも、鉄板で覆われた戦艦を作ったのも信長です。つまり、戦前の大日本帝国がその時に現れていたかもしれない、という事です。歴史好きの妄想です、かね?

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