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歴史・地理 その13「赤勝て、白勝て! 源平合戦」


本 運動会の「赤組、白組」や「紅白歌合戦」のように、「赤 vs 白」の元となったのは平氏と源氏の戦いで、平氏が「赤旗」、源氏が「白旗」を味方の目印として掲げたのが元であるというのは一般によく知られている事だと思いますが、実際はそれほど旗色鮮明に分かれるものではなさそうです。確かに、平氏が赤旗を掲げ、源氏が白旗を掲げていたのは「平家物語」や「保元物語」には記されていますが、そもそも、その「源平」の区分が少々ややこしいのです。一般に「源平」は、もともとは皇族だったものが皇位継承から遠ざかり、「臣籍」に降下させられる(臣下に格下げ。自ら降下した者もいるでしょうけど)時に賜った姓で、平氏といっても様々な流れ(桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏等)があります。源氏も同様です、源姓は嵯峨天皇に由来します。それに加えて「藤橘」の四姓(げんぺいとうきつ)が、わが国では古い時代に名家として繁栄した姓で、橘姓は皇族から発生しています(橘諸兄)が、藤原姓は(中臣鎌足の功績により)帝から下賜された姓(藤原鎌足)です。

数ある平氏と源氏の中でも勢力が強かったのは「桓武平氏」と「清和源氏」でしょう。よく「西国の平氏、東国の源氏」と言われますが、これまた少々違っていて、どちらかといえば東国を含め、全国的には平氏の勢力の方が強かったでしょう(平将門は関東の土着武士です)。双方ともに元は「皇族」であって、最初から武家であった訳ではありませんが、武家として成り立つ元は「北面の武士」でしょう。これは院御所の北面に詰めて、上皇の身辺警護に当たった役職ですから、当然「武装」します。これは白河法皇が創設した、院を守るための私的「直属軍」です。
   
ちなみに、日本の歴史で少々不思議なのは、帝が「引退」しても「朝廷内での力を保持」する事です。皇位を退いても法王、上皇となって「院」を称し、実質的な支配力を朝廷内で振るいます。家康の場合も家督を秀忠に譲ったあと、「大御所」として大きな力を持ちます(果ては神にまでなりました)。これは他の国であれば、トップの座を失った者はあまりハッピーな事にはならないのですが、おそらく、日本が「母系社会(姻戚関係を重んじ、寛容)」であり、特に朝廷では天皇の「母方(外戚)」が力を持つという事に由来するものであると思います。欧米のように「父系社会(契約による関係を重んじ、厳格)」であれば、「権威」「権力」の在り処が分かりやすいのですが、日本の朝廷は「権威」そのものですから「権力」と違って「誰(特定の人物)?」が明確にならないのでしょう。また、朝廷は極めて閉鎖的な性格を持っていましたから、実質的な「政治権力」としてよりも、それを裏付けする「権威」としての、けっこう隠微な抗争が行われていたと考えます。権力を握っている者(当時は藤原氏)にとってはその帰趨が自らの命運を決める訳ですから、当然、巻き込まれます。「権威の在り処」は現役の帝か法王・上皇か…。
   
話を元に戻します。平氏も源氏も日本のあちこちに勢力(土着)を持っていましたが、日本の中心、朝廷の「北面の武士」の中で平氏が力を持ち始めます。が、もともとは源氏の方が帝に近い代(皇位継承)で「姓」を受けているため、平氏(皇位継承が孫の代になって臣籍に降下している者が多いらしい)よりも、格が上とされていたようです。平氏は「平家」ともいいますが、源氏は「源家」とはいいません。「平家」というのは平清盛の一門を指します。それが平氏の最大勢力となった訳です。つまり「源家」という中心的な一門がいた訳ではなく、棟梁が存在し、それが源氏を名乗るものを束ねていたという事です。源氏の棟梁はその正当性の象徴として「源太の産着:鎧」「髭切りの太刀(もとは友切りの太刀、その昔は鬼切りの太刀)」を所有していました。北面の武士の中で平忠盛(平清盛の父)が頭角を現し始めます。

これは、忠盛が優れていた(政治工作の手腕)としか言いようがありません。朝廷の中の事ですから。やがて、その忠盛が築いた朝廷内での力を引き継いで、保元平治の乱の勝利で決定打を放ち、以後、平清盛が朝廷を牛耳り始めるのはお馴染みのお話です。その時に冷や飯を食わされ続けたのが源氏勢力。しかし、この保元平治の乱は源平合戦ではなく、平氏、源氏ともどもそれぞれの勢力ごとの利害関係でどちらにつくかを決めていました。あたかも源氏がこれで凋落したように見えるのは、源氏の棟梁(義朝)が「負け側」にいたからです。義朝の子、頼朝が幽閉されたのは伊豆の北条家で、北条家は平氏ですが、後に源氏の頼朝を助け、平氏(平家)を討っています。これは東国の平氏が西国の平氏を倒したとも言えます。後の鎌倉幕府も源氏かといえば、実際の力を持っていたのは北条ですから、平氏政権とも取れます。
    
このように平氏、源氏といってもその境は少々曖昧で、「西国の平氏、東国の源氏」も、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府がみな東国源氏の政権なので(ちょっと怪しい…)、後世にそのような事が言われたのでしょう。では、本テーマである「平氏が赤旗、源氏が白旗」となった理由は? これは、平氏(平家)は朝廷内で権勢を振るい「公家化」していたため、朝廷で高貴な色とされる「赤」で染め抜いた旗を使い、源氏は白い旗に何か(八幡大菩薩とか)を書いていたのでしょう。もちろん、保元の乱の時はまだそれほどの勢力を平氏(平家)は持っていませんが「天皇方」についていましたので、朝廷の高貴な色を使い、その後、定着したのでしょう。「源平合戦(治承・寿永の乱)」の実態は、平清盛の「平家」と、源頼朝を棟梁として担ぎ上げた「反平家勢力(源氏も平氏もゴッチャ)」の戦いであったといえるでしょうが、それでは「絵」にならないので、「赤旗の平氏 vs 白旗の源氏」という構造がお話として定着したのでしょう。で、「赤勝て、白勝て!」で盛り上がる訳で、二つの勢力が戦うというのは「光と影」「神と悪魔」「善と悪」のように、物語の構造としては分かりやすいから、人を惹きつけるということです。

ところで、源氏が征夷大将軍となるというのも、平氏(平家)は朝廷の官職の枠組みの中でのし上がって行きましたが、源氏、特に頼朝にはそうした地位が無いため、源義仲(木曾の義仲)が任ぜられた征東大将軍を引く継ぐ形で征夷大将軍を朝廷に要求し、権力のバックボーンとしたのでしょう。で、以後は武家の棟梁(=源氏)が征夷大将軍に任ぜられる、と…。余談ながら、豊臣秀吉は織田信長の一切を引き継ぎ、「平氏」まで引き継いだので、征夷大将軍にはなれず、朝廷内の「関白職」を政権のバックボーンとし、「幕府」は開けませんでした(関白は朝廷内の行政官ですから)。征夷大将軍には「地方統治権」があるようです。

歴史は誠に複雑に動いていますが、それがいずれはシンプルな形で残る典型が「赤勝て、白勝て!」でしょう。

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