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歴史・地理 その14「元寇を防いだのは本当に神風か?」


本 元寇といえば、文永(1274年)・弘安(1281年)の役の二度にわたって日本が他国から襲撃を受けた最初の国家間の「戦争」であり、その結末は二度の「神風」によって日本が勝利した事が一般の歴史観となっていますが、私は昔からこの「二度の神風」というのがどうにも信じられませんでした。偶然という事は当然あるでしょう。しかし、「二度も」となるとちょっと…。当時は鎌倉幕府、執権北条時宗のもとで(防衛)戦争が行われましたが、日本は「国家」としての体裁も整っていなかっただろうし、最初にフビライから国書が届いた時も、それに答えるべき日本の「国王」が果たして(朝廷ではなく)幕府であってよいものかどうか、不明瞭です(元には分からないでしょうが)。これが日本のお家芸というか、権威・権力の二重構造というか、その形は幕末まで続きます。

国外から攻められた経験はないので、当然、相当な危機感は持ったでしょう。しかし、当時の日本の軍事力(武士)は戦いで得た恩賞によって幕府に忠誠を尽くしていましたから、侵略しようとする外国を追い払っても、得るものはありません。つまり、命を懸ける「意味」が希薄となります。恩賞を得ようとしたら相手の国を侵略し返すしかありません。武士の集団は「国防軍」ではありません。つまり、武士個々の能力は置いといても、とても外国からの攻撃を「国家」として防衛するといった機能は持っていなかったでしょう。また、歴史に残る大帝国を築いた大軍事国家「元」にしてもその日本侵略軍団はお世辞にも強力とはいえず、数だけのハリボテ軍団に見え、誠にお粗末な大ドタバタ劇が元寇であると思えて仕方ありませんでした。どうにも、不完全な国家同士の下手な(失礼)大戦に思えます。それを考証してみます。
    
文永の役は、日本が元の国書(服従の要求)に対する態度を明らかにしないのに業を煮やしたフビライが、「脅し」目的で出兵したという説がありますが、脅しにしては大袈裟な900隻の船でやって来ています。世界史上、最大規模の大艦隊です。兵は、水夫も入れると4万近く。脅しでこれだけの規模の軍隊を組織するでしょうか。しかし、その兵のほとんどは漢人や高麗人、女真人であったようです。つまり、元の支配下にある民族で、当然、あまり「やる気」は無かったでしょう。しかも船は高麗が造らされたようですので、もう経済的にも疲弊して、出撃前から「厭戦」気分が蔓延していたのでは。1274年10月、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出船した元の大船団は日本の対馬、壱岐で大虐殺を行い、そこで捉えた「生き残った人間」の手に穴を開け、船の舷側に吊り下げて博多湾へと進行してきます。生きた人間を吊り下げるというのは、日本人の矢を避けるためです。今でいう「人の盾」です。元の残虐さには定評がありますが、洋の東西を問わず、異民族は「人間」に見えないのでしょう。

元は博多に上陸し、日本の武将との戦いを始めますが、これは元軍の圧倒的優勢の展開となります。最大の理由は、戦い方が違う事です。日本では、まず互いに「名乗り」を上げて、鏑矢(音の出る矢)を放ち、合戦の始まりとなりますが、元軍は集団戦法でいきなり攻めてきます。しかも、日本人は使わない毒矢を使い、鉄砲(てつはう:この時期は銃ではなく、火薬を詰めた手榴弾のような武器)で攻撃してきます。圧倒的に元が優勢だったようです。その時代の日本の武将はもともとが一族郎党での小集団単位ですから、まだ、大軍団同士の戦いは経験していません。まともに正面からやり合えば負けます。勝てる機会は小集団同士の戦いか、奇襲、夜襲です。実際、そうした戦い方で元軍に対抗していたようです。
   
しかし、ここである事に気が付きます。まず、元寇の様子を記した絵を見ると、そこには「元の騎馬兵」が殆どいません。後方の将校らしき者が数人、馬に乗っていますが、前線にいるのは徒歩(かち)の兵たちです。元は馬をあまり持ってきていなかったのでしょう。これは奇妙な光景です。元があれだけの大帝国を作り得たのは「騎馬軍」にあります。圧倒的なスピードで進行し、巧みに馬を操り、馬上から敵を斃す、その軍事力で歴史に比類のない大帝国を作り上げたのです。つまり、元の軍事力は優秀な馬による「陸の王者」です。その元軍に馬の姿があまり見えない…。しかも、明確な資料はないのですが、元軍は全軍を上陸はさせていないようです。兵員を船に残して…。仮に後詰にしても何故、船に兵員を残しているのか…。もっと不思議なのは、それだけの大艦隊であれば、何故、それを分散して攻め、敵を攪乱しないのか。艦隊の意味がありません。

そこである事にまた気が付きます。元の船は数は多いとはいえ、「軍艦」ではなく、ただの「輸送船」では…。キール(竜骨)構造を持たない、板を張っただけの箱船です。機動力も、恐らく「操船」も洋上での作戦行動としては使えなかったでしょう。だから、波の穏やかな博多の湾内に留まる事しかできなかったのではないでしょうか。しかも、船に残っているのは慣れない遠洋航海で疲弊しきった兵たちでは…。本来は「陸の王者」である元が、もし、博多に馬を伴って大軍で上陸していたら、日本はアッという間に侵略されていたでしょう。しかし、日本に来ていたのは数だけの「二軍・三軍」だとしたら。十分な上陸戦、侵攻が叶わなければ、肝心の兵糧が尽きます。しかも、文永の役は10月(今の11月)ですから、台風が来るとは考えにくい。つまりは日本侵略という見通しが立たず、引き上げたのでしょう…。
   
かように、第一回の元寇は「神風」ではなく、日本の武将の奮闘もあったでしょうが、失礼ながら、元が、軍事的にはお粗末としか言いようのない侵略軍を編成して他国を攻め、ド派手に失敗したという事なのではないでしょうか。元というのはその版図の巨大さで「史上最大の帝国」と称されますが、その前の「宋」はほぼ300年、元の後の「明」もほぼ300年続いていますけど、「元」は100年に満たない。元とは前述したようにその強力な騎馬兵力で世界を駆け回り、その侵略の範囲を帝国としたのでしょうが、「行政能力」まで整える事は出来なかったと考えます。大陸を騎馬兵が走り回っている範囲内を帝国と称していたのでしょう。もちろん、フビライが「塩との交換」を基に札を発行し、経済的な支配を図ったという優れたところはありますが、馬と簡易なテント型住居(ゲル)によって作られた軍事帝国とシンプルに見る事ができます。戦線が広がりきればその中央は弱くなり、そこを突かれれば、滅びます。だから、アッという間に広がり、アッという間に消え去った大帝国なのでしょう。

弘安の役は7月(今の8月)ですから、台風が起きたという事は可能性として高いと思えます。ですが、台風が発生しやすい時期にまた大船団を送り込んでくる元の軍事能力には相当の問題があると思います。今度は船団を二手に分けて攻めてきますが、最初と同じ事で、海上からの攻撃ができる訳でもないし、十分な上陸作戦を展開できた訳でもなさそうです。つまり、同じことをまた繰り返し、そこに今度は台風が来た、と。台風の規模は分かりませんが、元軍兵士の死体が海で島のようになっていたという記録がありますから、かなりの船が沈んだ訳で、けっこう大きな台風だったのでしょう。キール(竜骨構造)を持たない船では波に船底を破られ、ひとたまりもないでしょう。

結論です。日本が元寇から自国を防ぎ得たのは、もちろん日本の武将の奮闘もあるでしょうが、もともと、元は海を渡って他国を攻める軍事能力は持っていなかった、という事です。今の時代でも「上陸作戦」となると多大な犠牲覚悟で行わなければなりませんし、上陸した後、その地を占領するのも相当な能力を要します。確かに「神風」のように台風は来たのでしょうが、それは相当に誇張されていると思います。時の権力者の都合で出来る程「他国の侵略(=大規模軍事行動)」は簡単ではないという事を「元寇」は示していると考えます。「神風」なんてのはないでしょう。

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