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歴史・地理 その15「戦国武将の晴れ舞台 戦場 甲冑は舞台衣装」


本 応仁の乱で幕を上げた戦国時代ですが、応仁元年は1467年。応仁の乱自体は京都が主な戦場です。それが全国へと広がって行くのは「元亀・天正の時代」といわれますけど、「元亀」は1570年~1573年、「天正」は1573年~1593年の二十数年間で、徳川家康が天下を取る「元和」は1615年。その「元和」の前の「慶長」は1596年~1615年で、その時代の覇者は豊臣秀吉。「応仁」から「元亀」までの百年近くには「文明」「長享」「延徳」「明応」などの元号が十一も入ります。京の都がドンチャン騒ぎの「応仁の乱」で焼き尽くされ、「元亀・天正」まではかなりの時間が経っています。その間、下剋上の幕を開けたと言われる「伊勢新九朗=伊勢盛時(もりとき)=北条早雲」ですが「一介の素浪人から戦国武将にのし上がった」というのは、どうも怪しいようです。もともと父親が室町幕府の要職にいたらしく、全くの素浪人ではなさそうです。伊豆を奪い取ったのも、何らかの幕府との動きとつながっていたと見るのが自然のようです。「下剋上」「戦国の世」を明確にスパンと「何時?」と切るにはちょっと、時間的にマッタリしているような…。

しかし、史実は学者に任せて、やはり、この伊勢新九朗が伊豆の地を武力で旧勢力から奪った時点を「下剋上」の嚆矢(始まり)と見て、本格的に群雄が全国に割拠し、ド派手な戦を繰り広げた戦国時代は、室町幕府を事実上滅亡させた、織田信長の登場からとしましょう。この時代、日本各地では戦国の武将たちが「覇」を競ってドンパチの連続。その中で大きく変わっていったのは、武将たちの「甲冑」です。もう、「モード」と呼びたくなるほどに様々な意匠が生み出されます。それまでの武士の戦闘姿である「大鎧(おおよろい)」から、「当世具足(とうせいぐそく)」と呼ばれるものに、戦術・武器の進化、西洋甲冑の影響もあり、変化して行きます。
     
平安・鎌倉時代の武士の戦い方は、騎馬で弓を互いに打ち合う戦い方でしたが、戦の規模が拡大し、徒歩(かち)中心の大軍団による集団戦法が中心となると、その甲冑の形も変わってきます。見た目で一番大きく変わったのは、錣(しころ:兜の鉢の下に付け、後頭部や顎を守る)が兜の前両側に大きく左右に開いている「吹返(ふきかえし)」という部分でしょう。当世具足ではここが殆ど無くなっていきます。馬上での横から飛んでくる矢を防ぐ機能があまり必要で無くなり、正面からの攻撃を防ぐことが重要になってきたからでしょう。もちろん、徒歩兵の機動性を上げるための軽量化が図られたためでもあると思います。

古式ゆかしい中世武士の「大鎧」はドンドンその姿を変えて、やがては織田信長のように西洋風の甲冑にマントという、そのままヨーロッパから出て来たようなデザインにまで「進化(?)」します。加藤清正はあの長い烏帽子型の兜が有名ですが、「体の筋肉」を表にデザインした、理科室の人体モデルのような鎧も使っていたようです。遠目に見たら、もろ肌出して戦っているように見えるでしょう。勇気のアピールですね。兜の長さという事でしたら、織田家の家臣である「森可成(もりよしなり)」の兜も相当に長い。天に向かって円錐形が1m近く伸びているような兜です。蒲生氏郷(がもううじさと)の兜などは、スターウォーズのダースベーダーがブッとい角を二本生やしているようなデザインです。甲冑の肩の辺りはアメリカンフットボールの選手みたい。伊達正宗の「三日月」の鍬形(くわがた:兜の額に付いているアレです)は有名ですが、そんなの目じゃないって鍬形がゾロゾロとあります。「愛」の一文字を打ち抜いた直江兼続の鍬形。「南無阿弥陀仏」の6文字を打ち抜いた森蘭丸(信長の小姓)、松平信一(のぶかず:家康の祖父の従兄弟)の兜は「出たー!」って感じの巨大化け猫の耳です。ミミズクの耳を模したと言いますけど…。藤堂高虎のはどう見てもレシプロ戦闘機のプロペラを兜の両側に2本付けたような兜です。黒田長政の巨大水牛風の角などが可愛らしく見えます。もう後は、カブトガニやイセエビ、サザエにイカ、ホタテもいますね。うまそうな喰い物(?)だけでなく、ムカデやトンボ、カマキリもいます。そんな武将たちが入り乱れて戦っている様はさしづめ、「武将たちのカンブリア大爆発」とでも呼びたくなります。
      
とにかく日本の甲冑は(おそらく)世界に類がないほどに「装飾工芸品」の塊です。日本刀も「目貫」「鐔」など、コレクションの対象になるほどの工芸品ですが、甲冑は猛烈です。その各部の名称(大鎧と当世具足)を上げただけでも「兜鉢」「鍬形」「面頬(めんぼお)」「袖」「栴檀板(せんだんいた)」「九尾板(きゅうびのいた)」「胴」「弦走(つるばしり)」「草摺(くさずり)」「佩楯(はいだて)」等々。構造にしてもそれまでの「小札(こざね:小さな皮片や鉄片をつなぎ合せたもの)」から「板札(いたざね)」という蛇腹構造のものになっていったり、蝶番(ちょうつがい)を使ったものになっていったり、その各部の名称や構造、様式を詳しく説明しているとそれだけで「日本の甲冑」のサイトができそうですのでこの辺で止めます。ではなぜ、そのように、戦うための装備が「工芸品並み」に意匠が凝らされたものになったのか?

簡単に言えば、戦場で「目立つため」でしょう。ちなみに「戦場」という言葉を「せんじょう」ではなく「いくさば」と呼んだ方がシックリと来ます。実際、ドラマなどでも「訓読み」でそう呼んでいます。戦国武将たちにとって「いくさば」は「舞台、ステージ」だったのでしょう。そのステージでの活躍を「目を惹く甲冑」で演出し、たとえ負けたとしても、その奮戦ぶり、潔さを示して(皆がそうできたかどうかは分かりませんが)、後世に名を残す…。もう、大将クラスになると遠目に見ても「あれは誰々」と分かるくらいのシルエットを持っていたでしょう。
   
これほど多彩な甲冑が揃うのは世界でも類が無いと思います。日本の場合は、略奪等は当然あるにしても、応仁の乱は別にして、城郭都市ではないので、一つのエリアを全て灰燼に帰すような破壊は行わず(応仁の乱も誰もそれを目的とはしていなかった)、「いくさば」は関ヶ原や川中島のように開けたところか、もしくは城攻めで雌雄を決し、ヨーロッパのような「○十年戦争」というのは、まずありません。何かの本で読みましたが、信長が南蛮の宣教師にヨーロッパでの「戦(いくさ)」について話を聞いている時に、「南蛮ではそんなに長い戦をやるのか…!」と驚いていたシーンが記憶にあります。日本では勝負は篭城戦でなければ1日か数日で決着が付きます。何故日本の戦は短期決戦なのか? それは相手の「徹底的な殲滅」を目的としないからです。宗教も殆ど絡みません。寝返る者は早々に寝返り、降る者は降る。戦闘という暴力よりも、「内通、寝返り」で殆ど大きな戦は決まり、敵の大将を取れば(もしくは降参させれば)終わり。ヨーロッパは相手を徹底的に殲滅します。この差でしょう。

破壊や掠奪(雑兵は掠奪をします)ではなく、武将としての勝負を「戦場(いくさば)」で明確につけたかったのです。その理由としては、やはり「名こそ惜しめ」という美意識が強かったのだと思います。しかも、戦闘には織田信長軍(兵農分離)を除いて、多くの「農民」が参加している為、専門の戦闘員は実質、動員兵数の半分もいなかったのではないでしょうか。あまりに戦死者が出ればもう次の戦はできません。死者も千までは滅多に行かなかったのでは。それよりも、戦を優勢に進めて、如何に相手を降伏へとすみやかに追いやるかで勝負が決まったのでしょう。どちらかが全滅するまでの戦はしていない筈です。

ヨーロッパの戦は「奪い合い」。日本の戦は「雌雄を決す」。だから、戦場は限定され、長期にも及ばず、武者は今でいう「タレント」的な性格が強かったのでしょう。戦自体は悲惨さから逃れられはできませんけど…。余談ですが、鎧の胴に弓矢の的を大きく描き、「命を的の…!」と自分の名前を大声で叫んで走り回っていた武将がいたとか。選挙運動のような…。目立ちたかったのね。

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