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歴史・地理 その16「平将門 革命児? 朝敵? 英雄? 救世主?」


本 平将門(たいらのまさかど)。この人ほど、その時々、各時代でその評価がコロコロと変わっていった人もいないのでは? それは同時に、「平将門 何者?」といった、人物としての捉えにくさ、歴史の中での評価が難しい、という事にもなります。現代では荒俣宏の「帝都物語」で巨大な力を持つ怨霊として登場し、歴史上の人物というより「伝奇」上のキャラクターといった性格が強くなっていると思いますが、まあ、この平将門には、その「首」にまつわる様々な伝承・伝説が各地にありますし、菅原道真同様(時代が近い)、怨霊としてその祟りを怖れられ、将門神社までありますから、オカルト的には何かとおヒレはヒレは付けやすい存在です。それはさて置いて、人間「平将門」を歴史的にどのように捉えれば良いのかは、未だに定まってはいないと思います。

簡単にプロフィールを言えば、その生年にはいくつかの説があるようですが、一般的な903年としましょう。没年は940年、38年の生涯です。時代は平安時代中期であり、出生は、史料的にはアヤフヤですが下総の国、いまの千葉県佐倉市辺りです。血筋は桓武平氏で、土着した地域名で房総平氏とも呼ばれています。その平将門がどのような経緯で朝廷を震撼とさせる「平将門の乱(承平の乱:935年~940年)」を起こしたのかは、かなりややこしいのですが、その最期に、日本の歴史上、記録で確認できる「最初の晒し首」になったのは事実のようです。また、朝廷に対して「新皇」を名乗り、関東独立を謀ろうとした「革命児」としても本邦初ではないかと思います。しかしながら、平将門を討った藤原秀郷(ひでさと)とて、俵藤太(たわらとうた)として近江の国の「大百足(オオムカデ)退治」の伝説を持っており、「酒呑童子退治」の源頼光の伝説も十世紀後半の話で、時代は同じ。つまり、この平安時代中期は、正式な史料に基ける時代というより、伝奇・伝説の領域にある時代です。あの陰陽師の安倍晴明もこの時代の人物です。
     
そんな時代の中で平将門像を炙り出すために、まだ朝廷の権威が盤石であったこの時代の中で彼が辿った道をできる限り簡潔に追ってみたいと思います。実際はかなりややこしい。平将門は元服後に、大志を抱いて都に上ります。この辺りは、今も昔も同じですね。しかし、そこには「どう頑張ろうと藤原氏しか出世できない」世界があり、実力もあり、人望もあった平将門でも思うようには官位・官職を得られません。それに、(多分)嫌気がさした将門は、都での出世を断念し、郷里に帰る事を決心します。で、郷里である下総の国(現在の千葉県、茨城県)に帰ってみると、叔父である平国香(くにか)に預けておいた自分の土地が、その国香に横取りされていました。当然、返してはくれません。将門は仕方なく少ない領地からスタートして、その領土を広げていきます。すると、その領地をまた叔父の国香に狙われます。まさに「仁義なき戦い」です。地方豪族の「相続」に関してのルールが明確になっていなかった(これ以後も永く。長子相続は江戸時代でしょうが、「お決まり」のお家騒動を見ると、ただの建前でしょう)訳で、要は弱肉強食の単純な世界です。「酷い」も「倫理観」もありません。今度は、国香と姻戚関係があった源護(まもる)と共謀して、将門の領地を狙います。

しかし、将門は強かったのでしょうね、「弓馬」に長けていたらしく、一説には、反りのある刀を作らせたのは将門が最初であるとの説もあります(これには明確な根拠はありません)。結果、国香も護もボロ負けして、国香は命を落とします。この後は同じような事の繰り返しです。裏切りあり、密告あり、利害で付いたり離れたり…。要は、関東という、都から見たら辺境での「平氏という同族の争い」です。将門は「関東」の地をそれなりに上手く納めていたのですが、朝廷から「謀反」を疑われたり、赦されたり、けっこう頭に来ていたのでしょう。最終的には、天変地異の続く中、東の「平将門の乱」、西の「藤原純友の乱」が同時に起こり(承平天慶の乱)、東西の兵馬の乱れが不穏な世の原因であるとデッチ上げられて朝廷から討伐の対象とされてしまいます。将門はそれに「キれた」のですかね。八幡大菩薩のお告げとかで、「自分は帝の血を引く者」として「新皇(しんのう:新しい天皇)」を名乗ります。もう完全に「朝敵」です。朝廷は高僧を集めて「朝敵」調伏の祈祷を始め、藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛連合軍を将門討伐のため、下総の国に派遣します。
    
「新皇」を名乗ってから二カ月余りの後、平将門は、藤原秀郷・平貞盛連合軍に討たれてしまいます。この当時の「戦闘」は主に弓を打ち合う戦いで、風上が圧倒的に有利となります。平将門軍は風上から連合軍を攻撃し、優勢だったようですが、勝利を確信した時に風が逆の向きに変わったそうです。形勢はたちまち逆転し、平将門はその額に弓矢を受けて最期を迎えます。運が悪いとは言えますが、自然現象の事ですから。藤原純友の乱も鎮圧されます。将門の「首」は都で晒されますが、この首が様々な伝説を生み出します。将門の首は腐りもせずに夜な夜な、自分の身体を求めて叫んだとか、関東に向かって飛び去ったとか…。将門の首塚は東京都千代田区にあります。将門の強さの背景には「関東での人気の高さ」「朝廷の搾取から関東を解放してくれる領民の期待、支持」があったのだと思います。故に、兵馬も集めやすく、領土経営もスムーズだったのでしょう。で、アッという間に関東全域を押さえ、その力は「都をも窺える」程であったようです。そこに見える将門像は「関東の民衆にとっての英雄、救世主」。「新皇」を名乗る姿は「革命児」。しかし、朝廷から見れば「天下の大罪人、朝敵、賊」となります。これはその後の歴史の中でも様々にその時の状況で評価が変わります。
    
ここで一つの素朴な疑問が浮かびます。将門は「新皇」を名乗ってから、新しい国造り、体制作りを図りますが、その組織体は全く「朝廷」と同じだったとか。これでは「革命」とも「救世」とも言えないじゃないですか。「政権の簒奪」と言われかねず、「関東独立国家の建設」とは言いにくい。実際の所、平将門は「関東をどのようにしたかったのか?」「朝廷に対して、どうしようと思ったのか?」。これは想像に頼るしかありません。思うに、将門は「兵(つわもの)」、「人望」は一級品であったでしょうが、「革命」という意識はなく、その時々の信念で動いた人物なのでしょう。その結果として「関東の覇者」として歴史に名を残す事となった…。

しかし、その存在の歴史的意義は、本人の意思とは別に、それまでの「朝廷の権威」で治まっていたこの国に、ポツンと「武の実」を落としていったのではないでしょうか。その実はやがて、平氏の隆盛、鎌倉幕府、室町幕府、応仁の乱、下剋上の戦国時代、織豊時代、江戸幕府へと連綿と続く「武士の世」の幕を上げて行ったのだと思います。その意味では、日本史上、最初の革命児が平将門であったと言えると思います。平将門を知れば知るほど、「力で時代を旋回させる」、その歴史の嚆矢(こうし:始まり)が平将門、そのようなイメージが強く湧き上がります。

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