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歴史・地理 その20「源氏の御曹司 じゃじゃ馬 足利尊氏」


本 戦前までは、朝廷に害をなした三大悪人とされていた「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」と「平将門」については書きましたので、やはりここはもう一人の「足利尊氏」でしょう。彼は戦前までは逆賊・大悪人でしたが戦後ではその再評価が行われ、新しい時代を切り開いた「英雄」として扱われることが多くなっています。まあ、武将としても、最初は鎌倉幕府軍として楠木正成に痛い目にあわされていますが(直接サシで闘った訳ではないですけど)、最後には追い詰めてこれを討ち取り、それどころか幕府軍であったのに、北条高時を自刃に追い込んで鎌倉幕府を滅ぼし、朝廷の力を復活させた後醍醐天皇でさえその力には抗えず、京を逃れていますので、優秀な武将であったのでしょう。この足利尊氏、元の名前は「高氏」ですが、これは鎌倉幕府の執権北条時高の「高」の字を賜った名ですけど、その後、幕府軍から寝返って六波羅探題を攻め、その功により後醍醐天皇の諱(忌み名、いみな:口にする事が憚れる名前。普段呼ばれる名前は字:あざな。当時の習慣)「尊治」の尊の一字を賜り「尊氏」と名乗ります。

余談ですが、室町時代末期にも足利高氏という名の人物が存在しますが、これは当然別人で「尊氏」と名が被るため、後に足利高基と改名しています。それはさて置き、足利氏は、八幡太郎源義家を祖とする名家で、足利尊氏はその足利氏の「御曹司:跡継ぎ(ちなみに平氏の場合は「公達:きんだち」)。生年は1305年。鎌倉幕府の中で「源頼朝」の系統が衰微してからは、足利氏は源氏の中でトップクラスの家格。その時の政権は執権北条時高にあり、足利尊氏にとっては少なからず面白くなかったでしょう。北条氏は平氏であり、故に征夷大将軍になれず朝廷の職名でもある、幕府の将軍を補佐する「執権:しっけん」として権力を握っていました。足利尊氏のその後を見ると、やがてはその鎌倉幕府を倒し、その後には後醍醐天皇の朝廷勢力をも倒し、誰にも御する事ができなかった、まさに「じゃじゃ馬」と表現したくなります。
     
「じゃじゃ馬」という言葉を、愛用の新解さん(国語辞典)で見てみると「あばれ馬の意。夫などの言うことを聞こうとしない、扱いのむずかしい女」とあります。「じゃじゃ馬娘」という言葉があるように、女性に冠する言葉のようになっていますが、本来的には「あばれ馬=誰にも御せない、他人に操られない」であり、その意味で使って間違いのない言葉だと思います。尊氏は源氏の名門の御曹司ですが、その若い頃の主だった記録は少なく、歴史上にその名を表すのは20代末から30代くらいです。そこまでは、鎌倉幕府に対して、静かに不満を募らせていたのでしょうか。その頃の鎌倉幕府は「元寇」により弱体化しており、その機を狙って虎視眈々と権力奪回を狙っていた後醍醐天皇をリーダーとする朝廷勢力が幕府打倒のための兵を挙げます。この時に朝廷側に馳せ参じた少数の武将の中にあの「楠木正成」がいます。足利尊氏も朝廷からの「幕府打倒の綸旨:りんじ、天皇の命令」を受けていますが、幕府軍として京に向かいます。しかし、ここからが尊氏の「じゃじゃ馬」たる所以の始まりです。
 
幕府軍として朝廷勢力を打倒し(元弘の乱)、その結果、討幕計画に関わった多くの貴族、僧侶が死刑・配流などの厳刑に処せられます。後醍醐天皇は廃位され、隠岐島に配流されます。楠木正成は城に火をかけ、そのドサクサで戦場を脱出し、次の戦いに備えていました。その後、後醍醐天皇は隠岐島を脱出して、またまた倒幕の旗を翻します。尊氏はまた討幕勢力の鎮圧に向かいます。しかし、「じゃじゃ馬」尊氏は腹の中に貯めていた「幕府=北条時高」への不満を吐き出すかのように、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方に付く事を決意し、西国の反幕府勢力の武将とともに「六波羅探題:幕府の京都での一大拠点」を攻め滅ぼします。鎌倉は新田義貞と、足利尊氏の嫡子義詮(まだ4歳)の元に集結した武将とが連合して、ついに北条高時を自刃に追い詰め、鎌倉幕府を滅ぼしました。
     
ここから、朝廷による「建武の中興(新政)」が始まりますが、朝廷はその出だしで致命的な失敗をやらかします。武将たちへの論功行賞で、実際に働いて鎌倉幕府を倒した関東の武士たちよりも、朝廷に近い者が厚く遇されたのです。さすがに足利尊氏は功績第一等とされていますが、そこは武家の棟梁、武士たちの不満を当然感じています。新しい政権にも、自分の家来である高師直らを送り込みますが、自らは政権の中に入ろうとはしませんでした。これは、尊氏が後醍醐天皇と距離を置こうとしたのか、後醍醐天皇が尊氏と距離を置こうとしたのか判じがたいのですけど。いずれにしても武士たちの朝廷に対する不満は募ります。その内、旧幕府北条軍の残存勢力が再興の兵を挙げ、鎌倉を奪還します。尊氏はそれを独断で自らの兵を率いて北条軍を破り、今度は尊氏が鎌倉に居座り、そこで独断の執務を行う気配を見せます。もともと、朝廷は尊氏の存在を警戒しており、この尊氏の行動でそれは決定的なものとなります。

後醍醐天皇は新田義貞などを官軍として尊氏の討伐に向かわせます。結果、足利尊氏は「賊軍」となってしまい、官軍との善戦もむなしく、九州にまで敗走し、自刃すら考えるほどに追い詰められます。しかし、この尊氏は武門の棟梁であり、鷹揚で気前が良く、武士たちの信望は厚かったようです。一計を案じて京の、後醍醐天皇と対立する、後の光明天皇(光厳上皇の弟)を擁立する事で院宣(いんぜん:上皇の命令)を受け、「官軍」の地位を取り戻し、西国の武士を取りまとめ、関西の摂津でついに新田義貞と楠正成の軍を打ち破ります。尊氏は光明天皇を擁立し(北朝)、後醍醐天皇は京から追われますが退位はせず、吉野の地に朝廷を遷します(南朝)。さあ、ここからがややこしい「南北朝時代」の始まりです。この時代はとても一言では説明できません。興味がおありでしたら「社会・政治その14:今でも解釈次第 大義名分無き南北朝時代」をご参考までにお読みください。

足利尊氏を「じゃじゃ馬」と称しましたけど、まさに日本中あちこちでこれほど戦った武将はいないのではないでしょうか。今日の敵は朝廷で、明日の敵は幕府で、朝廷にはお構いなしで鎌倉に居座り、敗走しても復活して朝廷を真っ二つにしてしまう…。こうして見ると、一体「彼の敵は誰だったのでしょう?」という思いに囚われます。時に応じて、誰でも「敵」にしてしまう。やがては征夷大将軍となり、室町幕府を開きますが、実質的な政務は弟の義直に任せっぱなしで、いきなりの遁世願望(とんせいがんぼう:世を捨てる事、出家)を見せたり。実は後醍醐天皇への強い忠誠心があったような様子もあります。敵とはいえ、楠木正成に対する真摯な姿勢を示したり、同族の新田義貞を「君側の奸」呼ばわりをしたり、執事の高師直と弟の義直が対立すると、どちらにも理解を示して、余計ややこしい事にしたり。

表現は良くありませんが、足利尊氏は「背中に誰も載せたくない馬」だとすれば、彼の敵は「背中に乗ってこようとする相手」という事になります。しかし、気が付いてみれば頂点に立ち、誰も背中には乗っていない…。これって、ある意味、「暴れてみせる相手が誰もいなくなった」ということで、おそらくこの時点で足利尊氏という「じゃじゃ馬」はいなくなったのでしょう。晩年は、九州討伐まで企て、ひたすら自らの敵を見つけようとしている姿に見えます。そして、戦での矢傷がもとで、死去します。1358年、享年54歳。

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