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歴史・地理 その22「戦国に咲いた大輪の花 稀代の戦術家 真田幸村」


本 その忌み名(=諱:いみな)は「信繁(のぶしげ)」。当時、忌み名は人前で名乗る事はなく、史料としては「信繁」として登場するようですが、その名を聞いてピンとくる人はいないでしょう。しかし「真田信繁」と聞けば、「ああ、真田幸村ゆかりの名前か」と思われると思います。この「真田信繁」こそが、後々に戦国第一等級の武将として語り継がれる「真田幸村(ゆきむら)」その人です。真田幸村を歴史の中で教科書的に知る前に、多くの人は「真田十勇士」を引き連れて戦国の世を暴れ回る英雄の話で知るでしょう。私もそうでした。猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八・由利鎌助・筧十蔵・三好清海入道・三好伊三入道・望月六郎・海野六郎・穴山小助。まあ、実在した人物ではないようですが、真田家の家臣の中にそのモデルとなる人はいたと思います。

歴史の中で語られる真田幸村は、まさにそうした超人的な家臣たちを引き連れて、鬼神の如く活躍した武将のイメージはもう鉄板でしょう。実際、真田の家臣は、寝返り、裏切りが当然の戦国時代の中で、そういった家臣が殆ど(全くかも)いなかったという珍しい家臣団だったようです。お馴染みの「六文銭」と「赤備え」。六文銭は三途の川の船賃。死をも恐れぬ証の旗印。赤備えは、全員が赤一色の甲冑に身を包み、その団結力を表したもの。「武田の赤備え」「井伊の赤備え」も有名ですが、私自身は「赤備え」と聞けば真っ先に「真田の赤備え」を思い浮かべます。
     
では、いったいどれほど強かったのか。真田家はもともと武田家の家臣で、いわば信濃の国の一豪族にすぎませんでしたが、それが名だたる大名も歯が立たなかったようで、おそらくは「無敗」でしょう。大阪夏の陣でその生涯を閉じますが、これにも異説があって、実は最後の特攻で徳川家康の陣を突き、その時に家康を斃していたとか。その後の家康は影武者で、となればこれは差し違えですから負けではありません。しかし、歴史にはそのような話はゴロゴロしていますから真偽の程は分かりません。「真田幸村」という英雄譚も歴史というものが作り上げたのかもしれません。幸村は戦国の習いとして上杉や豊臣に人質として預けられています。そして、上田城で徳川秀忠と闘ったときも、その武勇は父である「真田昌幸」にあります。15歳の時に、武田が滅ぼされ、その家臣であった真田軍がわずか300人程度で敗走する時、敵方の北条軍と遭遇し、もはやこれまでの場面で、幸村が、旗印を北条のものに変え、疑われてはやられてしまうので、即、疑われる間も与えぬよう、その旗印のまま北条に夜襲をかけて、敵方を裏切りが起きたと混乱させ、それに乗じて敵陣を突破した、という話も、私としては父親の昌幸の策と考えるのが妥当と思います。

その後、関ヶ原の戦いで、先に書いた徳川秀忠との闘いでも、4万対2千の戦いで秀忠をマッツァオにさせたのは昌幸でしょう。父親の昌幸はここで秀忠軍に勝たずとも、その進行を遅らせば、関ヶ原の西軍は有利になると考え、秀忠を挑発して見事にその行軍を遅らせ、秀忠が関ヶ原に着いたのは、もう戦いが終わった時。昌幸はこの点から考えると「大戦略家」であったと称されるべきでしょう。しかし、その関ヶ原に直接西軍として加わってはいなかったにせよ、昌幸・幸村父子はかろうじて助命され、勝者である家康に、紀伊国九度山にでの謹慎を命じられます。
    
その九度山で昌幸は、長年の謹慎生活の果て、無念の死を遂げますが、幸村は「大坂冬の陣」という武将としての舞台を、14年間の謹慎生活を経て、再び得る事になります。真田幸村、47歳の時。その時から真田幸村の大輪の花が戦国の世に咲き誇ります。ここで、個人的に思うのは、徳川に二度までも煮え湯を飲ませた戦の戦術がかなり似ているということです。おとりを使って敵を引き寄せ、火を放って混乱させそこに集中的な銃撃を加え、引こうとする敵に水攻め(川に堰を作り、それを一気に切る)で止めを刺す。これは昌幸の戦術でしょう。地の利と相手の慢心とを巧みについた戦い方です。で、当然、幸村はその薫陶を受けている筈です。それが四十路も半ばを過ぎた頃に、今度は自分がその戦いの実践を行う機会に出会えたのです。

余談ですが、九度山を真田が脱出して大坂城に入った知らせを受けた徳川家康は思わず「それは、どちらだ!」とマッツァオになり、息子の幸村であると聞いて大きく安堵したようです。幸村はまだそのような存在だったのでしょう。大坂城の軍議に加わっても幸村たち助っ人浪人衆の「出撃」策は採りいれられず、豊臣重臣たちの「篭城」が採択されます。よほど大坂城の堅牢さに自信があったのでしょう。しかし、古今、篭城戦とは「援軍」が前提となる策です。それも「いずれは諸大名が豊臣に寝返ってくる」という希望的観測故の戦略でしょうが、後々これが豊臣滅亡への序章となります。「篭城」が決まってしまった以上、幸村は「さてどう戦うか」を考えます。その作戦立案には父親である昌幸の知略が大きく影響していたと思います。彼はあの有名な出城「真田丸」を、敵が一番攻め込んできやすい大坂城外に築きます。この時に「真田の赤備え」が登場する事になります。
   
この時の幸村の戦い方は父親昌幸の戦い方を彷彿とさせます。水攻めはありませんが、一番槍の功名を焦る敵将たちを巧みな心理戦(挑発)で狭い城門の前に引き付け、功を焦る敵将が後から後から「集まり過ぎて身動きが取れなくなった」所に、一斉射撃を浴びせます。徳川の東軍は1時間余りで万の死傷者が出て、以後、この真田丸に近づけなくなります。そこで家康は豊臣に和議を申し入れ、これまた有名な話ですが、「外堀」を埋め、ドサクサで内堀まで埋めてしまい、大坂城を裸にしてしまい、真田丸も取り壊されます。そんな不利な状況の中で、何としてでも豊臣家を滅ぼそうとする家康は豊臣を強引に挑発して、「大坂夏の陣」が始まります。この時点で、実質的な天下は徳川家康のものです。真田幸村はその状況下でも「如何に勝つか」を考え、家康の本陣を命がけで一点突破し、その首を上げる以外に「勝つ」手立てはないと考え、主従ともども、まさに六文銭の「命を惜しまぬ」特攻を敢行します。戦略上の分の悪さを戦術で取り返すにはそれしかありません。

そして、あわやという所まで家康の本陣にせまり、その真田軍の鬼神の如き勇猛さは、家康に腹を切る覚悟までさせたといいます。また、前述したようにその時、家康は落命していたという言い伝えまであります。幸村も武運拙く、深手を負い、敵将に討ち取られてしまいます。しかし、幸村には家康に寝返り、信濃の大名となる道もあったのです。幸村はそれを蹴って「名誉ある死に場所」を求めました。これは「功名」という当時当たり前の価値観からは遠く離れたもので、「何故?」と思います。東軍の武将はこぞって敗軍の将である真田幸村の武神とも称すべき戦いに、敬意を表します。それ以後長く、幸村は何百年も歴史の中で生き続け、徳川幕府でさえ、敵であった真田幸村人気に横やりを入れる事は憚ったようです。
     
真田幸村とは、あの戦国の世に何を求めたのでしょうか。「名」…? 確かにその名は今の時代まで生きています。長く長く、世に潜んだ境涯の中で「武将としての美意識」が「純化され」、その精神の「結晶体」にまで凝縮されたのでしょうか。戦場にいない時の真田幸村は、鬼神のイメージとは程遠い、実に温厚な人物であったそうです。謹慎生活を送った九度山の住民たちにも大そう人気があったようで、脱出を図る時もその手助けを受けたとか。真田家は、兄の信之が東軍にいたため、滅んではいませんが、それは父親昌幸の深謀な戦略であったのだと思います。その父親と一緒に送った14年間もの幸村の謹慎生活。知将と恐れられた昌幸の無念の最期。幸村を突き動かしたものが何であったかなどは軽々と推し測る事はできません。

しかし、幸村が戦国という血生臭い時代に、歴史が語り続ける大輪の花を咲かせたというのは事実です。我が身を生き延びさせる戦略を捨て、我が身を捨てる戦術に生きた稀代の天才が咲かせた花は、何百年も枯れることなく、咲き続けています。

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