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歴史・地理 その25「明治維新への導火線に火を点けた男 高杉晋作」


本 高杉晋作のイメージを一言で云えば、家柄の良い秀才ボンボン。そんな彼が、どうして功山寺で挙兵し、禁門の変(蛤御門の変)での大敗北により、長州藩では「幕府への恭順」止む無しとして第一次長州征伐では、家老3人の首を差し出してまで侘びをいれた長州藩の「保守派(晋作は俗論派と呼んでいる)」を蹴散らかし、自らを「正義派」と評して、藩の実権を握り、長州を一気に「攘夷派」へと染め上げる事が出来たのか…。それが瞬く間に「討幕」へと変貌し、明治維新に至ったのは教科書にも書かれている事実ですが、私はここのところに妙な違和感を永らく持っていました。彼は「革命家」なのか? そう聞かれれば、私見ながら、そのようなイメージはありません。彼がどのような「新しい日本」のビジョンを持って、功山寺で挙兵(1865年)し(この時点で薩長連合はまだ成立していない。翌年に成立)、第二次長州征伐(四境戦争)に臨み、どう見ても勝算のない戦いを勝利に導けたのか。高杉晋作の行動の、猛烈馬力エンジンが一体どこにあったのか、よく分からないと云った違和感です。

行動の経緯を見ればまさに堂々たる「革命家」なのですが、イメージにギャップがあり過ぎます。その寿命が短すぎたのか、功山寺での挙兵からこの世を去るまで、わずか一年余りの活躍です。当然、師である吉田松陰の「狂」ともいえる薫陶があった事は事実ですが、だからといって、そう素直にそちらへ単純に走るものでもないでしょう。実際、外国公使暗殺未遂や英国公使館焼き討ちを行いますが、前者はあくまでも未遂であり、後者は焼き討ちと云っても「建設途上の建物」を焼き討ちしただけで、英国人はそこに一人もいませんでした。これは、薩摩藩が生麦事件を起こし、攘夷の実を挙げたのに、「わが長州藩は」、という思いによる「ナンチャッテ攘夷」の行為ではないでしょうか。
     
高杉晋作は明治維新どころか大政奉還(1867年11月)も見る事無くこの世を去っています。晋作がこの世を去って半年後に大政奉還が行われています。とはいえ、高杉晋作が「攘夷」の機運を「討幕」へと向かわせ、まさに明治維新への導火線に火を点けたのは、間違いのない事実です。司馬遼太郎風に言えば、「一つの役割をもって天が地上に使わし、その役目が終わると天に戻した」と思える存在です。坂本竜馬を始め、幕末の多くの志士がそう云った奇跡的な存在ではありますが。高杉晋作の原点は1862年の「幕府使節随行員」として、中国の上海に渡航し、当時の清が欧米の植民地となりつつある光景を目の当たりにしたことにあるのではないでしょうか。「日本を清国のように、欧米の植民地にしてはならない」。それが彼の志の全てであるとすれば、そのエンジンの在り処が理解できます。高杉晋作は「攘夷」そのものには賛成でしたが、刀で外国人を追い払うだけでは「勝てない」事を理解していたのでしょう。同じ松下村塾門下生で、高杉晋作と四天王と並び称された久坂玄瑞とはその辺りが少し違うと思います。高杉は自然流というか合理主義というか…、イーカゲンというか…。

久坂玄瑞は行動としての「断固攘夷」であり、禁門の変の敗北で自害しています。その間、高杉晋作は脱藩により投獄されたり謹慎処分状態となって、禁門の変には参加していません。しかし、それ以前の脱藩で京都に潜伏したり、どうにも藩の意向とは違った動き方をしているように思えます。彼の脱藩は数度(5・6回との説あり)におよび、本来なら死罪です。しかし、そこは秀才好きで若い者に甘い長州藩の藩風か、死罪は免れています。おそらく、高杉晋作は脱藩して自由に自分の視点でもって、日本の現状を見ようとしていたのではないでしょうか。そして、「もう幕府には、諸外国を相手にする力も、内政の求心力もない」という事を、確信したのではないでしょうか。であれば、「もはや、幕府は無用。たとえ長州一藩でも強国となり、諸外国と対決できるだけの力を付ける他ない」と考えたのでしょう。身分を無視した戦闘組織、「奇兵隊」の創設もその思いの表れではないでしょうか。当時の常識を蹴散らかしての一手です。
     
それこそがまさに高杉晋作の行動力のエンジンであり、弟分の伊藤俊輔(伊藤博文)が後に語ったように「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」といった高杉晋作が動き始めるのです。ちなみに「東行(とうぎょう)」とは、英国大使館焼き討ちを藩から非難された時に、隠遁するとして称したものです。高杉晋作が国際情勢に通じていたことは、長州が四カ国(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)連合艦隊に大敗し、その和議交渉で相手を煙に巻く立ち振る舞いで臨み、大方の提示条件は飲まざるを得ないものの、領地の一部(彦島)の「租借」だけは断固として撥ね付けたことからも窺えます。「租借」が期限付きとはいえ、それが実質的な「植民地化」であることを見抜いていたのでしょう。伊藤博文の自伝にその経緯が残されているようです。敗者であっても堂々と交渉し、相手に気圧されない交渉術で臨んだという事は、高杉晋作はやはり人物としても相当の器を持っていたという事です。

そして、話を功山寺挙兵に戻しますが、挙兵とはいえ兵の数は100人にも満たない。クーデターというにはあまりに無謀。しかし、それが長州藩をひっくり返し、第二次長州征伐では、当時東洋一の規模を誇った幕府軍の軍艦を「海上での夜襲」という奇策で退け、将軍徳川家茂の死というラッキーもあり、幕府軍は混乱し、結果敗北します。この戦いで幕府の面子は丸つぶれ。それが、1867年の「大政奉還」への大きな流れを生み出したといってもいいでしょう。その後はご存知の通り、鳥羽伏見の戦いを嚆矢として、幕府はアッという間に倒されてしまいます。しかし、高杉晋作はこの世にもういません。功山寺の挙兵から1年余り、超新星のような煌めきを一気に放ち、そして天に帰って行くが如く、その短い生涯を終えています。

高杉晋作の「志のエンジン」は「日本を欧米の植民地にしてなるものか」という気概であったと書きましたが、そこには更に「ターボ(過給機)」が付いていたようです。有名な辞世の句ですが「おもしろき ことも無き世を おもしろく」。「事も無き世に」との表記もあるそうですが、高杉晋作の詠ったのはこの上の句のみ。その下の句を付け加えたのは、看病をしていた野村望東尼で「すみなすものは 心なりけり」。この下の句は意味が無いでしょう。高杉晋作のエピソードの数々を思えば、こんな句ではなかったでしょうか。「生きてやったぜ、ざまーみろ!」。この子供じみたほどのお茶目さが高杉晋作という男の「ターボ」。しかし、その子供じみたが故に、明治維新というドでかい爆弾の導火線に火を点けてしまったのでしょう。そのために生まれてきた男か…。

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