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歴史・地理 その26「江戸幕府の終焉は北の大地にて 榎本武揚」


本 「幕末」とは江戸幕府の末期を表す言葉ですが、何時を持ってその終わりとするのか。明治維新の開始時期である、明治元年(1868年)とするのが妥当のようにも思いますが、この辺りがけっこうややこしい。その前年である慶応3年(1867年)の「大政奉還」「王政復古の大号令」をその開始とするのが一般的ではあるようです。とはいえ、「王政復古の大号令」以後に、明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)と呼称は様々ながら新しい政権が樹立している訳ですから、1868年とするのが分かりやすい。では、そこをもって、「幕末の終焉」とするのかと云えば、やはりこの時期は、海で云えば「汽水域(真水と海水の混じり合っている河口)」のようなもので、そんなにスパッと切り替わるものではないでしょう。

私は、「幕末」なるものの終焉は、1869年(明治2年)であると思います。その理由は、幕臣(海軍副総裁)である榎本武揚(えのもとたけあき、ぶよう)が五稜郭を新政府軍に明け渡し、降伏した年であり、この時に政治勢力としての江戸幕府は消え去った、と考えるからです。その終焉は、北の大地で訪れます。ただ、榎本武揚は「徳川幕府再興」を目指していた訳ではなく、嘗ては400万石に及んだ幕府直轄領(天領)を70万石に減封され、多くの幕臣が路頭に迷うのを救おうとして、「蝦夷地開拓」に活路を見出したようです。もともと榎本は小栗忠順(上野介)らとともに、新政府に対して「主戦論派」で、「恭順派」の徳川慶喜とは相容れず、江戸城が無血開城されると、当然、新政府軍は、江戸湾に浮かんでいる一大戦力である幕府海軍軍艦の引き渡しを求めます。しかし、榎本武揚はなんだかんだとそれに抵抗して、3隻の軍艦を温存します。その中には、当時最強の戦艦、「開陽」が含まれています。その段階で、彼は朝廷に「蝦夷地植民認可の嘆願書」を提出しますが、拒否されます。
    
榎本武揚は、幕臣の駿河移封、つまり引っ越しを完了させると、再び新政府の軍艦引き渡しを拒み、それどころか8隻の旧幕府艦隊を率いて、奥羽列藩同盟の支援に向かいます。しかし、闘いながら北上するも、東北戦線は新政府の勝利で終結します。榎本武揚は本来そこで「敗者」の筈です。しかし、彼の手には開陽を主力とした軍艦が残されています。1868年、旧幕府軍はその海軍力と大鳥圭介(幕臣)、土方歳三(新撰組)らの陸軍力で函館の五稜郭を占領します。ここからが榎本武揚の本領発揮です。なんと、そこで「蝦夷共和国」を樹立し、日本最初の選挙である「入札」で初代の総裁に就きます。つまり、明治新政府と対等となるための「国家」を北の大地、蝦夷に樹立しようとするのです。この発想はどこから来るのか? それは彼がオランダに留学した際に入手した「万国海律全書」によるものです。榎本武揚はオランダでこの書籍を見つけた時、これこそが、これからの日本に必要なものである事を見抜いたのでしょう。

彼はその経歴から見ても第一等の秀才ですが、物事の本質を見極める眼を天賦の才として持っていたのか。この辺り、立場は違えど、坂本竜馬を彷彿とさせます。「万国海律全書」は「海の国際法規と外交」の法律書ともいうべきものであり、使い方によっては世界を相手にするための「大戦略兵器」ともなります。彼は列強の関係者から「事実上の政権 :Authorities De Facto」と書かれた文章を入手し、それを列強の意志と取りますが、実際、それは私的な書簡に記された文章であり、現実に列強から認められていた訳ではありませんでした。しかし、結果的に「共和国(君主のいない国家、民主主義の原型?)」を名乗り、選挙まで行っている先進性、近代性は諸外国から見ても、決して間違った手続きには見えなかっただろうと思えます。それを可能にしたのは榎本武揚の懐にある「万国海律全書」。
     
しかし、勝負は時の運、とはいえ、蝦夷共和国軍の虎の子である主力戦艦「開陽」が江差攻略の際、座礁事故により沈んでしまいます。その上、もともとは幕府が買い付けていた最新鋭の装甲艦が新政府の手に渡ります。もはや、蝦夷共和国軍の劣勢は如何ともしがたく、ついに、1869年、榎本武揚は新政府軍に降伏します。ここに江戸幕府は名実ともにこの世から消え去る事になり、それが「幕末の終焉」であると考えます。旧幕臣である榎本武揚は明治新政府に盾突いた「逆賊」として幕府と共に滅びるのが通常の運命です。しかし、ここで再びあの「万国海律全書」が榎本武揚を守ります。彼はその書を戦災から救おうと、新政府の蝦夷征討軍総参謀の黒田了介に送ります。その書は、榎本武揚自らが書写し数多くの脚注を書き込んだ、日本の未来を思う「志」で作り上げられたものと云っても良いでしょう。黒田了介(後に総理大臣となる清隆)はその書を見るや、榎本の非凡さに感服し、その助命を決意します。こうした場面は動乱の世で多く見られる美談と思いますが、両者は敵味方ではあっても、「日本の新しい姿(近代化)」に対する志は同じであり、ここに幕末の終焉で光を放つ「必然」が生まれるのは、黒田の志もまた相当に高いものであった故、という事です。

投降する敵将である榎本武揚を、黒田了介はぐい飲みと酒の入った徳利とを並べて、笑顔で迎えたと言われています。そして、榎本がこれからの日本に必要な人材であると伝えます。この辺りの榎本の心情を明確に伝えるものは無いようですが、普通に考えれば、榎本武揚は「旧幕臣」であり、武士です。自刃して果てても、おかしくはありません。しかし、彼は、黒田了介の必死の助命運動により旧幕臣ながら明治新政府に仕える事となります。それを「変節」と責められても、申し開きはできない事でしょう。榎本は渾身、合理主義者だったのでしょうか。単純にそうは思えません。エピソードとしては「感情の量が多い」江戸っ子であったようです(出身は備後国、今の広島県)。彼は、彼の志の為、我が身を捨てたのでしょう。自分の価値を理解してくれた黒田清隆とは終世、親交が厚かったようです。
   
明治新政府は二つとない「才」を得、また榎本もその能力により、6つの内閣で大臣を歴任し、日本の近代化に大きく貢献する「才」を発揮します。特にロシアとの国境交渉では、そのタフな交渉能力を発揮して、相手を驚かせたといいます。それはそうでしょう。国家を建設しようとまでした男ですから。榎本武揚の存在は知っていましたが、改めて彼の軌跡を知ったのは安部公房の「榎本武揚」を読んでからです。あの阿部公房が榎本の事を書いているとは…。本を書店の棚で見つけた時、作者の名前を見間違えたのかと思いました。安部公房が滔々と榎本武揚の生き様を描いています。

榎本がもし五稜郭で死んでいたら、旧幕臣として最後まで戦った天晴な武士、ヒーローとして歴史に名を遺したと思います。しかし、彼の存在は「万国海律全書」と共にあり、それが新政府に渡っていなければこの国の近代化はかなり遅れていたのかもしれません。明治日本の近代化を、静かに静かに、そして確実に支え続けた榎本武揚。長きに渡り「万国海律全書」から「日本の未来」と「世界」を見つめていた彼を、幕末の砲弾轟く中でも一歩も引かず、静かに佇んでいる姿としてイメージしてしまいます。そして、これはWikipediaの中で見つけたエピソードですが、まさにここに榎本武揚の生き様を凝縮して見る思いがするのは私だけ? 以下抜粋。

引退後も、江戸っ子気風とユーモア溢れる人柄で愛された。その人柄を表す逸話に、次のようなものがある。向島百花園に其角堂永機(きかくどうえいき:江戸後期の俳人)が遊び、「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」と風流な一句を表したところ、榎本は一目見て「何だこんな句」と言い放ち、改作して「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直したという(燗酒の歌)。

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