テキトー雑学堂 タイトルバナー

歴史・地理 その36「明治維新に辿りつけなかったもう一人の龍馬 赤松小三郎」


本 赤松小三郎という幕末の人物について特に知っていたわけではありません。私の歴史観は俗にいう「司馬遼史観」であって、受験的な「皇国史観」ではありません。つまり、日本史に関する司馬遼太郎の影響が相当に大きいのです。そんな方は他にもたくさんいらっしゃると思いますが、「司馬遼史観」の最大の魅力は、歴史上の人物が、その息使いまで、その体温まで感じられるほど現実に蘇ったかのような姿で、教科書的な歴史ではなく、まさに人の業として絡み合いながら紡がれる歴史という大きな流れを、「見せてくれる」などという悠長なものではなく、そこに叩き込んでくれることです。で、その最大の短所は、その「司馬遼太郎」のストーリーに現れなかったものに対して、殆ど興味を持たなくなってしまうことです(私だけかな…)。赤松小三郎という人物、もしかしたら司馬遼太郎の随筆に現れていたかもしれませんが、私はあまり随筆を好まなかったので、見逃していたかもしれません。随筆をあまり好まなかったのは、氏の作品に共通するのかもしれませんが、時に「黒子」的に話が冗長になることがあり、随筆に同じようなことを感じてあまり読みませんでした。今でもそうです。

で、赤松小三郎という人物を知ったのは、某新聞のある書評からです。その対象となった書籍の名は「赤松小三郎ともう一つの明治維新(作品社)」。その書評の中で目に留ったのが、彼が、1867年(慶応3年)の5月に、前福井藩主、幕末四賢侯の一人と謳われている松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」という建白書を提出しているというくだりです。同じくその年の5月に同様の建白書を薩摩藩の島津久光にも提出しています。これは七か条からなる「議会制度の導入を求めた国家構想」の建白書であり、あの有名な、坂本龍馬の「船中八策」と呼ばれる1867年(慶応3年)11月(これは作成日ではなく書面を整えた日であるという説もありますけど…)の構想よりも一足早い、という点に少々驚き、その「御改正之一二端奉申上候口上書」なるものを見てみました。そこにあったのは、極めて具体的な構想…。

坂本龍馬の「船中八策」は、言ってみれば「アジェンダ(Agenda)」のようなもので、課題項目が並べられた形です。赤松小三郎の「御改正之一二端奉申上候口上書」はいわば企画書のような形です。七つの項目をそれぞれに「企画目的(狙い)」「企画意図(考え)」「試案(提案)」の形でまとめてあります。まあ、当時の「候文」ですから、今の企画書ほど自由闊達に表現できるものではありませんが、知識人相手にはその「論」を伝えるのに十分すぎるほどの企画書です。その「御改正之一二端奉申上候口上書」冒頭の一部を抜粋します。

一 天孫御合體諸藩一和御國體相立根本は、先づ天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に國事を議し、國中に實に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。
 蓋し権の歸すると申は、道理に叶候公平之命を下し候へば、國中之人民承服仕候は必然之理に候。第一天朝に徳と権とを備へ候には天下に待する宰相は、大君、堂上方、諸侯方、御旗本之内、道理に明にして、方今の事務に通じ、萬の事情を知り候人を選みて、六人を待せしめ、一人は大閣老にて國事を司り、一人は錢貨出納を司り、一人は外國交際を司り、一人は海陸軍事を司り、一人は刑法を司り、一人は租税を司る宰相とし、其以外諸官吏も、皆門閥を論ぜず人選して、天下を補佐し奉り、是を國中の政事を司り、且命令を出す朝廷と定め、又別に議政局を立て、上下二局に分ち、

少し長い抜粋となりましたが、行政組織とこれは「議会制度の導入」についての提案部分で、最後の「上下二局」という言葉に注目してください。これは国会にあたる「議政局」の設立を意味し、それは上下の二院制です。「其上局は、堂上方、諸侯、御旗本の内にて、入札を以て人選して、凡三十人に命じ、交代在都して勤めしむべし」となる「上院」と、「其下局は國の大小に應じて、諸國より數人の道理に明かなる人を、自國及隣國の入札にて選抽し、凡百三十人に命じ、常に其三分之一は都府に在らしめ、年限を定めて勤めしむべし、」とある普通選挙による「下院」により、「國事は總て此両局にて決議の上、」とあります。「其兩局人選の法は、門閥貴賎に拘らず道理を明辨し私なく且人望の歸する人を公平に選むべし。」。そして、「萬國普通の法律を立て、」とあり、これは憲法ではないですか。つまり、「立憲主義」です。

坂本龍馬の「船中八策」にもこれは記されています。下記に引用します。

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。

同様のことを提案しています。そして「一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。」とあります。まさにこれは赤松小三郎の提案と同じく「立憲主義」の提案です。坂本龍馬と赤松小三郎とを構想の後先で比較したいのでは決してなく、坂本龍馬の「船中八策」が歴史の表舞台で輝き、それに劣らぬ赤松小三郎の「御改正之一二端奉申上候口上書」が歴史の陰に埋もれていることを、新たに知ったことで驚嘆に近い思いを持ったということです。つまり、300年の長きに渡り、公儀と諸侯による封土建国の国家(歴史学的には西洋的な中世とは区分される。ある意味先進的な連邦国家であったと言えるのでは)であった日本の中に、突如として特異点ではなく複数の「立憲主義・議会主義」なる構想が湧きあがってきたということは、その原型のようなものを当時の知識層は既に持っていたと解釈するのが合理的です。

1866年(慶応2年)に福沢諭吉の「西洋事情」が刊行されています。当然、当時の知識人はその影響を受けているでしょう。福沢は江戸幕府の命により、1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパへ渡っています。その欧米のリアルな空気、現実を日本に伝え、それは大いに日本の知性を刺激したことでしょう。ですから、欧米の政治制度や人権の概念をすでに日本人は知っていたのです。で、赤松小三郎の「御改正之一二端奉申上候口上書」には、その「人権」の概念が含まれているのです。

一 國中の人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ、充分力を盡させ候事

上記の項目の中に、それが記されています。長くなりますので最後の所だけ引用します。「夫々有用の職業を授け候御所置き、治國の本源に可有之候。」要するに、身分制度を無くし、その能力を個々に活かすべきということです。龍馬の「船中八策」には「人権」なるものがこれほど明確に記されてはいませんが「伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、」にそれが含まれているのかもしれません。

坂本龍馬や赤松小三郎だけが先進的だったわけではないと思います。彼らを動かしたのはこの時代の空気であり、それを思う存分吸った中に「立憲主義・議会政治」そして「人権」なる概念が形を表し、その後の日本を形作る指標となったのであると考えれば、日本の「立憲主義」は幕末に生まれたと考えるべきでしょう。不幸にもそれが踏みにじられる時代を迎えてしまいましたが、日本の「立憲民主主義」は、明治維新以来の長い年月の中で練りに練り上げられていたものの筈です。それを軽んずるような空気が今の日本にあるとすれば、また同じような道に向かってしまうのでしょうか。

赤松小三郎の「身分ではなく、その能力に見合った評価が認められる世の中」、そして、権力でさえその独善を行使できぬ「立憲政治」を身もだえするほどに求めた幕末の知性が、いずれ日本にそうした時代が実現することを知った時、どれほどの感慨を覚えてくれるでしょうか…。「其兩局人選の法は、門閥貴賎に拘らず道理を明辨し私なく且人望の歸する人を公平に選むべし。」「萬國普通の法律を立て、」。今の日本人はそれを当たり前と思ったまま、その恩恵を享受しています。彼らのような時代の空気を吸ってはいないと思います。不幸にも、理不尽にも、坂本龍馬、赤松小三郎の両者は明治維新をその目で見ることなく凶刃に倒れています。この二人の生き方、行動、考えを知れば知るほど、幕末という時代、列強がアジアに押し寄せ蚕食を始める時代に、この小さな国がアッという間に近代への道を駆け上っていった事実に、そのエンジンの馬力に驚くよりも、誠に不思議なこの国の形を思ってしまいます。

歴史・地理 目次へ



【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「あれこれブログ風」サイト
「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.