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歴史・地理 その4「我不媚人 不望富貴 黒田如水(官兵衛)の生き様」


本 洋の東西を問わず、「戦国」という時代には物語の対象として魅力ある人物が誠に多く輩出します。「乱世の雄」という言葉がありますが、まさに「乱世」であるが故に作り上げられた人物が時代を転換させていくのでしょう。「戦」とか「戦争」は、如何に時代の必然・偶然とはいえ、断じてあってはならないものと思いますが、その中で練り上げられた群雄像までは否定できません。日本の戦国時代にワラワラと登場した武将・英雄たちの中で「誰に一番惹かれるか(興味を持つか)」と問われれば、私は黒田如水と答えます。

2014年の大河ドラマになるからという訳でもないのですが、元亀天正の戦国時代を眺めるとこの黒田官兵衛(如水)という存在がまさに時代の「狂言回し(簡単に言えば進行役)」であったと思います。ちなみに黒田孝高(よしたか:諱、忌み名)と聞いてもピンとは来ません。諱は「忌み名」で、通常は名乗らず、隠した名前です。通称である黒田官兵衛(かんべえ:おそらく「かんぴょうえ」と発音していたのでは)と聞いて一応すわりの良い人物像にはなりますが、私的には晩年、出家して「黒田如水(じょすい)」と名乗ったその名こそが一番シックリと来ます。まあ、名前だけの事なんですけど。
     
黒田官兵衛(如水)は竹中半兵衛と並んで、秀吉の「両兵衛」と称される名軍師で、夭逝した半兵衛に比べ、59歳まで生きました(当時としては長生き?)が、この希代の策士を語ろうとするとき、どこからその人となりを捉えて良いか分からないほどに幅の広いイメージを持つ人物です。ある本で「我不媚人 不望富貴」という官兵衛の言葉に出会った時、晩年の如水と称した事と合わせ、乱世の中にありながらその飄々とした生き様にえらく共感(実際は憧れ)を覚え、それ以来のクロカン(官兵衛ファンはそう呼ぶらしいです)ファンです。「我不媚人 不望富貴」を読み下すと「我、人に媚びず、富貴を望まず」で、くだけた言い方をすれば「俺は人に媚びては生きない。栄耀栄華など興味もない」という事でしょう。実際、九州攻めで勝利を決定する大手柄を上げたのに12万石しか(それまでが3万石ですから9万石の加増)与えらえなかった時も、特に不平をいった形跡はありません。それどころか、官兵衛ほどの存在であればその3倍は貰っても不釣り合いではないでしょう。まあ、秀吉にその才を警戒されたからとも言われていますが。
  
秀吉を警戒させた原点は、「本能寺の変」の知らせを遠征先の備中高松城攻めの最中に聞いた時、茫然としていた秀吉の耳元で「天下取りの好機到来」と告げた事にあると一般に言われていますが、私はこの話にあまり現実味を持っていません。何故なら、あらゆる武将にとって「チャンスさえあれば天下を取る」という気分は当たり前の事であったでしょうし、「中国大返し」という、日本史上屈指の大強行軍というのも、3万ともいわれる大軍を10日で200キロ、しかも軍事行動が可能な状態で山城山崎まで軍団を移動させたというのは、どう考えても事前の準備が無ければ到底不可能であったと思えます。単純に考えれば、あらかじめ武具甲冑や馬、兵糧を京近くに用意しておかなければ、移動はともかく、それだけの大軍団移動をした後に、1万数千の兵力を持つ明智光秀軍との戦闘能力まで発揮することはできなかったのではないでしょうか。

何事にも「陰謀説」というのは付物で、本能寺で織田信長を倒したのは秀吉の計略であるとする説もありますが、様々な情勢の分析から「もしもの場合」を考えて、それ(信長に万が一の事態が起こる可能性への対応策)を軍師が用意していたとしても何ら不思議な事はありません。私は、当然、そうであったと思います。秀吉が官兵衛を警戒していたとすれば、それは「よく分からない男」だったからではないでしょうか。戦国の時代に生きる者の価値観として、官兵衛はどこか違っていたのではないでしょうか。利で動かず、情で動かず。しかも、飄々として、万事に備える。しかもその手際が鮮やかで、それに奢るところも無い。これは不気味ですよ。
  
黒田官兵衛を評する言葉は様々にあり、「希代の策士」「卓越した交渉能力の持ち主」「築城の名人」「キリシタン大名」「趣を解する茶人」「合理主義者」と、まあ、書けばキリが無いほどありますが、策士とは言え、関ヶ原の戦いは予想外に早く決着が付いてしまったし、謀反を起こした荒木村重を説得に行って1年余りも牢に閉じ込められたり、キリシタン大名とはいえ、キリスト教者としてどこまで信仰が深かったのかちょっと怪しいし…。要は後世の「黒田官兵衛像」がその殆どであるように思えるのですが、その生き様に関しては一貫して「我不媚人 不望富貴」であり「如水」であったというイメージが私の黒田官兵衛像です。変幻自在、運命に逆らわず、自分の役割と分を心得、全てを受け入れる。

有名な逸話に、関ヶ原の戦いの報告をした息子の長政から「家康様が手を取って礼をしてくれた」と聞き、それが右手であったので「その時お前の左手は何をしておった」と家康を討ち取るチャンスを逃した長政を責めたといいますが、これを私はあまり信じていません。なぜなら、この時代、家康の首を取ったところで徳川家が瓦解する事など無い位にその力と組織は巨大なものになっていたし、九州の地から、いくら西国武者が強いからとはいえ、天下を窺うにはもう一度元亀天正の時代に戻さなくては如何ともし難い訳で、黒田如水がそこで「天下を狙っていた」とは考えにくい。息子への教訓として「自分が、そうしてやられることもあるぞ」という事だと思います。
    
徳川家康に九州での動きを怪しまれて責められても、申し開きなど一切せずに、大の字に寝転がって「好きにされればよろしかろう」とスッ惚けた態度を見せ、家康の方が毒気を抜かれてその件を不問に処したとか、晩年は息子の長政に家督をスムーズに譲るため、「イヤな爺さん」を演じ、家臣にわざと嫌われるような言動を取り、家臣全体に「長政への家督相続」を「早く早く」と望ませるように計らいます(私、これは信じます)。事実、家督相続で「如水」を偲ぶ家臣より、ホッとする家臣の方が多かったとか。そして、静かに天寿を全うします。

歴史は「人が作るもの」「人がいるからできるもの」という事であれば、戦国の世を眺めるに、前述したとおり黒田官兵衛ほどの「狂言回し」「進行役」はいなかったのでは。乱世の中で夢も見たでしょうし、挫折も味わったでしょうが、とにかく颯爽として飄々と時代を生きた黒田官兵衛に「凛とした姿」を感じてしまうのはクロカンファンに共通の思いでは…(私だけかも?)。もし、黒田官兵衛が最後まで「天下を狙っていた」としたら、そこにはどのような「国造りのイメージ」があったのでしょうか。一番興味のある所ですが、それを知る術は何もありません。(当然ながら)想像するしかないですね。

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